都市と五輪-第2回 東京五輪2020への都市改造Ⅱ

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都市政策の第一人者であり、明治大学名誉教授の市川 宏雄氏が執筆したコラムを定期的に掲載していきます。日本国内における「東京」の位置づけと役割、世界の主要都市との比較など、さまざまな角度から東京の魅力を発信していきます。
「都市と五輪」をコラム全体のメインテーマとしてとらえ、各回にてサブテーマを設定しています。全10回にわたりお届けします。

さて前回オリンピック時に「首都高速道路」が整備されたことは有名ですが、ではこれが一体どこまでできたのかは、意外とあまり知られていません。当時全部で72キロの計画があったなか、64年のオリンピックに間に合ったのは、この図の赤い線の部分だけでした。実は全部できずに、31キロしかできていませんでした。オリンピックで造ったと言いながら、できたのは半分未満だったわけです。羽田空港から都心まで来るはずでしたが、途中で途切れ、あとは明治神宮・渋谷方面に向かっています。これは、ここに代々木の競技場と選手村があったからで、そこだけを造りました。他はできていませんでした。非常に有名な日本橋の上を通してしまったという話は、オリンピックの影響でそうなったと言われていますが、実はオリンピックの時にはまだできていません。オリンピック後に造られています。
ここでのポイントは、オリンピックが無かったら、計画があったとしても、こうした建設の事業は始まっていないということです。ですからオリンピックは、“事業が始まる”ということに効果があります。オリンピックというのがなぜ重要かというと、世界に公約していて、また開催までの時間が決まっているからです。この2つがあるために、こうした作業が進むわけです。
そしていったん造り始めてしまえば、日本の国というのは、後は簡単で、すでに首都高速は300キロ位ずっとつながっているわけで、その出発点が実は64年でした。それも、たった5年で造ったわけです。59年のミュンヘンで開催が決定して、もうあと5年しかない。そのなかでこれだけのモノを造り上げます。これは奇跡に近いわけでして、なぜ造り上げることができたのか。これは皆さんご存知のように、羽田から都心までの道路はそのほとんどが海の近くを通っています。都心では全部川の上を通っています。川の上か、川の水を抜いて道路が通っています。要するに用地買収に時間が掛らなかったためにできたわけです。逆に言えば、用地買収さえ無ければ、お金を使えばこれくらいできる、ということの象徴です。

首都高速は上記のような経緯でしたが、一般道ではどうだったのでしょうか。上図の赤い線が国道246号線です。都心から西に向かっています。なぜこういう道路が必要になったのかということにも理由があって、真ん中は明治神宮です。明治神宮から駒沢競技場とか馬事公苑に行かなければならないということで、優先的に拡幅工事が行われます。次に不思議なのは、環状7号線の西側です。ずーと西側が出来上がっていて、埼玉県まで行っています。これは、なぜなのか。理由としてはこれも簡単で、埼玉県には戸田の競艇場と朝霞の射撃場があったために、必要だから造ったわけです。このおかげで環状7号線は後に全部に広がる契機となりました。
このときのミステリーですが、環状7号線、この長さの規模がたった5年で造られています。通常、こうしたレベルのモノを造ろうと思うと、用地買収が始まって、土地所有者とのネゴシエ―ションがあって、だいたい周辺住民が反対したり嫌がったりして時間が掛ります。およそ10年位の時間が掛って、やっと建設が始まって、全部で20年位はゆうに時間が掛ります。なぜたった5年でできたのか。これはあまり知られていませんが、日本で初めて「土地収用法」が使われました。土地収用法というのは、公共利益のためには所有者は反対であっても売らなければならないという法律ですが、これを初めて適用したのです。しかし、通常これを使うと大騒ぎになります。要するに行政のゴリ押しだとか強制だとか大問題になりますが、このときはほとんど騒ぎになりませんでした。これも「オリンピック効果」です。オリンピックがあるのに、文句を言っている場合ではないという風潮で、これが通ってしまいます。環状7号線はその後一気に東まで延びて、今では全部の環状が完成しています。やはり、オリンピックを契機に始められたということが重要です。

それから国道246線(赤い線)ですが、これはもっと都心の部分(青い線の区間)では「青山通り」と呼ばれています。青山通りというのは非常に重要な通りで、ここは戦後初めて欧米の都市空間が出来上がった場所です。ここには今の方は知らないかもしれませんが、JUNとかVANとか、私が高校生の頃ですけれども、当時のファッションの最先端がここに集まっていて、若者文化が青山通り裏側から発生します。現在の「骨董通り」です。「骨董通り」は元々、こうした若者文化の発祥の地であり、こうした所が新たにできてきました。オリンピックが無かったら、六本木も含めて変わっていなかったわけです。

ですからオリンピックの効果というのは、都市にとって非常に大きな影響があることが分かります。ただしこれは都市の発展段階と密接に関係していて、すべての都市がそうであるわけではありません。ただ東京の場合は非常に良いタイミングで行われました。このとき行われたことには実は裏があって、当時は国も一緒になってオリンピック予算を付けていました。当時一兆円。現在の予算でいうとおよそ30兆円使っています。この30兆円の内、8割以上はオリンピック施設には直接使っていないわけです。新幹線を造ったり、他のモノに使っています。このようにオリンピックという名のもとに行われた様々な基盤整備のおよそ8割は、オリンピックそのものの施設ではありませんでした。これがポイントです。

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著者

市川 宏雄いちかわ ひろお

明治大学名誉教授
帝京大学特任教授
一般社団法人 大都市政策研究機構・理事長
特定非営利活動法人 日本危機管理士機構・理事長

東京の本郷に1947年に生まれ育つ。都立小石川高校、早稲田大学理工学部建築学科、同大学院修士課程、博士課程(都市計画)を経て、カナダ政府留学生として、カナダ都市計画の権威であるウォータールー大学大学院博士課程(都市地域計画)を修了(Ph.D.)。一級建築士でもある。
ODAのシンクタンク(財)国際開発センターなどを経て、富士総合研究所(現、みずほリサーチ&テクノロジー)主席研究員の後、1997年に明治大学政治経済学部教授(都市政策)。都市工学出身でありながら、政治学科で都市政策の講座を担当するという、日本では数少ない学際分野の実践者。2004年から明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科長、ならびにこの間に明治大学専門職大学院長、明治大学危機管理研究センター所長を歴任。
現在は、日本危機管理防災学会・会長、日本テレワーク学会・会長、大都市政策研究機構・理事長、日本危機管理士機構・理事長、森記念財団都市戦略研究所・業務理事、町田市・未来づくり研究所長、Steering Board Member of Future of Urban Development and Services Committee, World Economic Forum(ダボス会議)in Switzerlandなど、要職多数。
専門とする政策テーマ: 大都市政策(都心、都市圏)、次世代構想、災害と危機管理、世界都市ランキング、テレワーク、PFI
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