「食中に活きる酒造り」に心技を尽くす

愛媛県内の他の酒蔵に先駆けて家族を中心とした酒造りに挑み、心技を尽くした酒が国内外から高い評価を受ける石鎚酒造。米の蒸し、酒質設計から製麹まで、中心的な役割を家族で分担しています。今回は、社長の越智英明氏、専務取締役の越智浩氏に話を伺いました。

石鎚酒造の歴史


石鎚酒造の酒蔵が位置する愛媛県西条市は、西日本最高峰の「霊峰石鎚」を戴き、清冽な水と豊穣な穀倉地帯を有する酒造りに適した土地です。越智家は隣町で14代にわたって庄屋を営んでいましたが、その後西条市氷見に移り、回船問屋を経て酒造業へ転身。現社長の祖父に当たる恒次郎氏が創業しました。

「祖父から、当家は農地改革までは広大な田を有していたのだと聞きました。豊かな穀倉地帯ですから、庄屋をしていた頃に多くの余剰米があり、良い水もありました。それで酒造りを始めたのだと思います」と英明氏。そしてこう続けます。

「元々高品質の酒を推していて、自社で造った酒を自社で販売することに誇りを持っていました。大変な時期もありましたが、大手企業への『桶売り(桶ごと他の酒造業者に販売すること、未納税取引)』を行うという選択をしませんでした。幸か不幸か、それによって阪神大震災で大手企業が大打撃を受けた際の影響も少なかったのです。

現在も海外への流通以外は、国内の酒販店・百貨店と直接取引を行っています。地元のファンや、いいものは時間をかけて『育てる』という考えがある酒販店に支えられてきたのです」

以前は杜氏を中心とした酒造りを行っていた

社長の英明氏が家業に就いた頃は、愛媛県内外の杜氏組合を通じ、杜氏とそのチームの蔵人に酒造りを依頼するのが通常のやり方で、石鎚酒造も例外ではありませんでした。職人である杜氏に一任する方がうまくいくという考え方があったと言います。

「この近隣の蔵元でも、子弟が大学で醸造学を学んで帰ってきたものの、実績のない若者が口出しすると杜氏とうまくいかず、結局良い酒が造れないといった話が多くあったのです。そのため、私の父も醸造学を学ぶ大学に私を行かせたがりませんでした。幸い、当社に来てくれていた杜氏はとても腕がよく、品質や造り方について文句を言う必要がなかったのです。大学卒業後、家業に戻りましたが、蔵に入らず営業管理などを行っていました。しかし、息子には杜氏になってほしいという夢がありました」

一方夢を託された浩氏は、酒造りを学ぶのは東京の大学に行くための体のいい言い訳のようなもので、家業を継ぐ気はなかったと笑います。また一度は別の道を選んだそうです。

私が在学していた東京農大の醸造学科は、味噌・醤油・食酢など日本の食文化を学ぶカリキュラムがあったり、バイオテクノロジーの研究職を目指す方もいらっしゃったりして、必ずしも酒造を学ぶ部門というわけではなかったのです。

また同業者の子弟と交流が生まれる中で、有名な酒蔵のご子息が学生でありながらお得意先にもてなされる様子を目の当たりにすると、埋まることのない大きな差があるように感じました。弟(石鎚酒造 製造部長 越智稔氏)も同じ思いを抱いたそうです。

それで、父に『もう帰らない(家業は継がない)と思う』と告げ、私は商社に、弟は茨城にある別の酒蔵に就職したのです」

転機となった杜氏の引退、家族でゼロから酒造りに挑戦


1999年、石鎚酒造の酒造りを担っていた杜氏が引退することになり、英明氏は2人の息子に「家族での酒造り」を提案します。それぞれの道に進んでいた兄弟は父の提案を受け入れ、2人そろって帰郷。手探りの酒造りが始まりました。

「量よりも質を追求する」と確かな信念を持って、1年目から大吟醸を醸します。しかし、不安感は相当なものだったと浩氏は語ります。

「恥ずかしながら、1年目はうまい酒を造るというより、酒にすることが目標でした。杜氏は、酒造りの職人であるとともにチームのリーダーでもあります。うまくいかないことがあれば修正する役割を担わなければなりません。当時、私達にはそれができませんでした。技術的な相談をする相手がいないという心許無さは、今でも忘れることができません」

英明氏もこう振り返ります。

「周りから『潰れるのは時間の問題だ』とまで言われたこともありました。それでも周囲の言うことは関係ない、自分達が何とかするのだ、という思いでやってきました」

この時支えとなったのが、当時高松国税局の鑑定官室長を務め、蔵元の指導を行っていた故・上田護國氏でした。ある会合で浩氏から石鎚酒造の孤軍奮闘を聞いた上田氏は蔵を訪れ、技術と精神の両面でサポートしてくださったそうです。

「蔵元の立場に寄り添ってくださる稀有な先生でした。持てる技術の全てを注いだ大吟醸を上田先生にテイスティングしてもらい、『大丈夫』と言っていただいた時、初めて重い肩の荷を下ろすことができました」

データと感性の酒造り


上田氏は、「理論で考え研究しなければ進歩しない。分からなかったら一緒に考えよう」と、「経験と勘」ではなく「データ管理」の重要性を繰り返し伝えられました。

「お米は品種や精米具合によって吸う水分量が違います。また麹は様々な酵素のバランスが重要ですから、狙ったとおりに出来上がっているかどうかの分析が大切です。さらに、発酵の経過や出来上がった酒の香気成分に至るまで、全て数字に具現化するのです」

毎年コツコツと設備を整え、2019年からは発酵タンクに特殊な温度計を埋め込み、携帯とiPadにグラフ化された数字が送られるようにするなど、設備も今の時代に即したものに変えています。ただし、浩氏は感性も忘れてはならない要素だと言います。

「酒は様々な成分の複合体であり、香りと味のバランスで決まります。だから唯一、利き酒だけは感性に頼らないといけません。数字が良ければ味も整っているというわけにはいかないのです」

「食中に活きる酒」の追求

駆け出しの頃は一杯で満足できる『うまい酒』を造りたかったという浩氏。現在は、料理の深い味わいに調和し、気付けば「もう一杯」と手が伸びる「食中に活きる酒造り」を目指しています。

「料理と合う芳醇な酒を造りたいのです。私達にとって一番嬉しいのは、銀座などの老舗や料亭に、「石鎚がないといけない」と置いていただいていることです。弊社の品質を評価していただいていることを誇りに思います」

引き継いだものを大切に、常に新しいものを求める

石鎚酒造の商品のラベルに使用されている文字は、創業者である恒次郎氏の筆を元にデザイン化したものです。東京や東北に商品を持ち込んだ当初は、『石鎚』が読めないという声もあったと言います。しかし、家族でこつこつと酒造りを続け、品質を高めてお客様に評価いただくことができたら、その酒を育んだ気候や風土、石鎚山や愛媛のことを知ってもらうきっかけになると考え、大切に引き継いで来たのです。浩氏は伝統継承についての独自の考えを持っています。

「当社には家訓がありません。そのため伝統継承について問われると『ほとんどしていません』と答えます。常に新しいことに挑戦しているからです。

何よりも、社名に『石鎚』を冠していることが創業者の意気込みだと捉えています。石鎚山は愛媛県のシンボルと言えるほど霊験あらたかな山です。石鎚山のように清らかな高い理想を持って酒を造れと伝えているのだと思います。

この土地にこの蔵があること、ここならではのお米があること、この水でなければいけないことが伝統継承であり、そこにその時その人の技術が相まって革新していくのだと思っています」

2020年、東京オリンピック、パラリンピックが開催される記念すべき年に石鎚酒造は創業100周年を迎えます。それを前に海外の顧客を意識して醸された、スタイリッシュで斬新なデザインの「VANQUISH(バンキッシュ)」にも、変わらず「石鎚」の文字が刻まれています。英明氏は力強く言い切ります。

誰が造っているか分からないような酒は酒ではありません。自戒も込めて、そういう思いで取り組んでいます。海外の方は、お酒の味は当然のことながら、物語やビジュアルをとても大事にされます。多くの方に知っていただく機会にしたいですね」

山水への感謝を地元に還元し、酒を造り続ける

浩氏はこれからの取り組むべきことを2つ挙げます。1つは国内の需要をもう一度上げること、もう1つは海外展開です。

私は常々酒造業は斜陽産業だと言っています。間違いなく数が減っており、淘汰は続くと考えているからです。しかし若い世代には、生き残るためではなく、人に『おいしい』と評価されるために取り組んでほしいのです。道の1つとして、国内の料理人さんとの信頼関係を今以上に深めていきたいと考えています。

海外展開も弊社ではまだ販売量の5%に満たないのですが、これからは間違いなく必要な戦略です。のべつ幕無しに出荷をするのではなく、国内と同じように様々な国のインポーターさん、ディストリビューターさん、販売店さんと信頼関係を築き、『石鎚』を流通させていきたいと思うのです」

浩氏は愛媛県酒造組合理事長でもありこの土地への感謝を還元するのも使命だと捉え、若手と交流し、技術向上のための研修会を開催しています。また、海外展開や国内のフェアでは、愛媛県が一枚岩になってやっていきたいと意気込みを語ります。2018年には愛媛県で28年ぶりとなる国家試験の「酒造技能検定」を実施。自身を含め、約30名の1級技能士が誕生しました。

「私が蔵に帰ってきた頃、業界はとても閉鎖的でした。商いも技術も、うちはうち、よそはよそという感じで、私自身も「地元が」とか、「愛媛が」とか、そういうものを気にしたことがありませんでした。最近、県や国の仕事をさせていただくようになったこともあり、地元への還元を強く意識するようになりました。酒造業界全体が持ち上り、最終的に弊社も立ち続けていられれば良いのです」

未来を見据え、社長の英明氏が担当する「米の蒸し」を次の世代に引き継ぐ準備も進めているそうです。100年企業となっても、石鎚酒造の心技を尽くした酒造りに変わりはありません。

お話を聞いた方

石鎚酒造株式会社 代表取締役社長越智 英明 様

1942年生まれ。法政大学経営学部卒業。1966年石鎚酒造へ入社。1977年専務取締役。1984年社長就任、現在に至る。この間、1966年2級ボイラ技師免許取得。1968年西条ライオンズクラブ入会。現在に至る。

石鎚酒造株式会社 専務取締役越智 浩 様

1970年生まれ。東京農業大学農学部醸造学科(当時)卒業後地酒問屋を経て99年に石鎚酒造に入社。同年に帰蔵した弟で製造部長の稔氏とともに酒造りを手掛け、初年度(1999酒造年度)の四国新酒鑑評会で金賞を受賞。以後も数々の品評会で好成績を上げ、銘酒「石鎚」の評判を全国に浸透させた。2017年度には兄弟そろって「東京農大経営者大賞」に輝く。愛媛県酒造組合理事長、日本酒造組合中央会需要開発委員。

 

著者

株式会社ボルテックス 100年企業戦略研究所

1社でも多くの100年企業を創出するために。
ボルテックスのシンクタンク『100年企業戦略研究所』は、長寿企業の事業継続性に関する
調査・分析をはじめ、「東京」の強みやその将来性について独自の研究を続けています。

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