髙儀が示した「人と人の絆」で乗り越える経営術
~金品は失われてもステークホルダーとの信頼は残る~

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1866(慶応2)年、越後・三条村にて鋸(のこぎり)鍛冶として創業した株式会社髙儀(新潟県三条市、売上高363億円〈2024年〉、従業員706名)は、大工道具・園芸用品・電動工具など約10万アイテムを扱う総合工具メーカー兼商社へと発展しました。8代目・髙橋竜也社長は「金品は時代が変われば失われても、人と人との信頼は決して消えません」と語り、次の100年を見据えています。本稿では燕三条のものづくりの歩み、倒産危機を救った職人の恩義、ステークホルダーと磨いたヒット商品、そしてサステナビリティ経営の現在地をたどります。

燕三条、鉄の都の胎動 

新潟県の三条市がなぜ「ものづくりの町」「金物の町」と呼ばれるようになったのか――。通説では、江戸時代から明治時代にかけて、大阪と北海道を日本海回りで往復していた商船、北前船の寄港地・新潟県の寺泊(てらどまり)において、各地から運ばれてきた鉄が県内の加茂川・信濃川の水運によって三条に集まり、北国街道の旅人が農具を買い求めたとされます。江戸初期、この地は物品の集散地として知られるようになりました。
一方、隣町の燕では1枚の銅板を金づちでたたいて立体的に成形した鎚起銅器(ついきどうき)や、神社仏閣など日本の伝統的建築物に欠かせない和釘作りが盛んになり、両地域はやがて「燕三条」と総称されます。職人や行商が行き交う活気のただ中にあって、鋸は建築・船大工の必需品として重宝されたようです。

鋸製造の歴史をたどると、三条鋸の始祖とされる阿部四兵衛門が1674(延宝2)年には三条上町古鍛冶町で鋸を製造しており、1718(享保3)年頃には早くも技術的発達が見られた、と地元史料は伝えます。さらに寛文年間(1661〜1673年)に会津から鋸やナタの製法が、天保年間(1830〜1844年)には脇野町の鋸鍛冶である中屋庄兵衛の技法が加わり、三条は和釘や農具、鋸を含めた多角的な刃物産地へ成長しました。こうした時代背景の1866(慶応2)年、越後・三条村にて髙橋儀平が鋸鍛冶としてのれんを掲げたのが、髙儀の原点です。

完成品を天秤棒に担いで近隣地域へ行商し、切れ味に関する要望を三条へ持ち帰り改良を重ねます。やがてノミやカンナを作る仲間から「自分たちの道具も売ってほしい」と頼まれ、製造と卸売の企業へと発展していきました。1910年代には韓国へ販路を拡大し、海外志向を早期に育んでいることが当時の日記に記録されています。

1938(昭和13)年、髙儀は陸海軍の指定工場となり鋸などの大工道具類を生産しました。資材統制下でも鉄材を配給され雇用を守りましたが、終戦直前に満洲工場がソ連軍に接収されます。戦火を免れた三条に社員たちが帰還し、鍛冶の火を再び灯しました。「社員が戻る場所を残したいという想いがあったのだと思う」と髙橋竜也社長は語ります。

終戦直後の倒産危機。金品よりも強い「関係性」という資産

戦前にして、既に地元の有名企業となっていた髙儀ですが、戦後には何もかもがなくなり、揚げ句は倒産しかけることとなります。1948年、2代目社長が急逝したのです。戦後間もないこの時期、政府は復興財源の確保とハイパーインフレ抑制を目的に、相続税(当時の財産税を含む)へ極めて高い累進税率を導入していました。最高税率は90%を超え、企業に現金納付を強く迫る制度設計でした。土地や機械は戦災で価値が目減りし、統制経済下で容易に換金できません。髙儀は納税資金のメドが立たず、店を畳むかどうかの瀬戸際に追い込まれます。
「髙儀が倒れるらしい」。噂は瞬く間に三条の鍛冶仲間へ広がりました。ある朝、工場を訪ねてきた職人たちは口々にこう申し出たといいます。

「代金はいつ払ってくれても構わない。製品も全部入れるから、仕事だけは続けろ」
自社製品の鋸に加え、ノミやカンナを作る仲間からも商品が無償同然で届きました。髙儀はその商品を販売して現金を作り、数年かけて税を納め、倒産を免れたそうです。
8代目の髙橋現社長は、歴代社長である父や伯父たちからこの逸話を聞き継ぎ、社内外で次のように語っています。

「100年という時間軸で見れば、戦争や制度変更で、金品などの資産はあっという間に失われます。しかし、人と人とが紡いできた信頼関係は時代が激変しても失われません。それこそが企業の最大の資産だと先人は体現してくれました」

以来、髙儀は仕入先・販売先・社員・地域との関係を経営指標の最重要項目と定義し、「誠実であること」を指針として掲げるようになります。

ヒット商品、EARTH MANとSHARK SAW

グッドデザイン賞を獲得した電動工具ブランドEARTH MAN

ホームセンターやGMS(総合スーパー)が広がっていった1960年代、売り場からは「商品の良さを誰が説明するのか」という根本課題が突きつけられました。髙儀が選んだのは“パッケージに語らせる”ことでした。図解入り台紙とバーコードを業界でいち早く採用し、棚の前で道具自らが特徴を伝える仕組みを整えます。また、売り場対応が一段落した1980年代、同社は眠っていた鋸鍛冶の技術を掘り起こし、薄刃・軽量の日本式引き鋸を替刃式に進化させた〈SHARK SAW〉を発売。切り口の美しさが北米・欧州で評価され、伝統技術を現代仕様でよみがえらせる道筋が開けました。

続く1990年、ホームセンターのバイヤーから「家庭で買える価格の電動工具を」と相談を受け、機能を絞り込んだ1万〜2万円台の〈EARTH MAN〉を投入します。この“機能を絞った設計”がDIYブームと重なり、シリーズは後にグッドデザイン賞を獲得しました。

2000年代に入るとリフォーム需要とネット通販が拡大し、園芸・工作ツールを含むアイテム数はPB(プライベートブランド)5500点、総計10万点に到達。髙橋社長は「まずやってみる文化が、ホームセンター時代の棚改革からEC拡販まで連続した」と振り返ります。

「ステークホルダーからの要望は宿題ではなくチャンスです。まず動かなければ次の声は届きません」

サステナビリティに先進的な会社として

2020年代に入ると、欧州の取引先から「環境対応をしてほしい」と求められ、髙儀は2023年に自社の温室効果ガス排出量を算定し、中小企業版SBT認定を取得しました。髙橋社長は「取引先やユーザーの声に1つずつ応えてきただけですが、気づけば『サステナビリティでも先を走っていますね』と言われるようになりました。ステークホルダーに真面目に向き合うことが結果として企業の競争優位性をもたらす一番の近道だったのだと思います」と強調します。

安全面では製品ラベルの二次元コードから操作動画や取扱説明書に直接アクセスできる仕組みを導入。この取り組みが評価され、2024年度に経済産業省の「製品安全対策優良企業表彰(PSアワード)」を受賞しました。取引先の要請に応える行動と、自社発の改善策。その両輪が髙儀のサステナ経営を前へ押し出しています。

次の100年へ――半歩先を歩み続ける

髙橋社長は取材の最後に、長期ビジョンをこう結びました。

「技術より早く社会が変わる時代です。まず試し、誠実に結果を示し続ける。それが8代目の務めであり、創業200年へ向けた道標です」

創業200年となる2066年、髙橋社長は92歳。それまでに「髙儀なら相談できる」と言われる関係性を国内外にさらに広げたいと語ります。
戦時動員、相続税圧迫、流通革命、脱炭素――髙儀は節目ごとにステークホルダーと誠実に向き合い、助けられ、磨かれてきました。危機を退け、EARTH MANやSHARK SAWを生み、環境経営の評価へ結び付けた歩みは、関係性こそ企業の持続を支えることを鮮やかに示しています。

お話を聞いた方

髙橋 竜也 氏(たかはし・たつや)

株式会社髙儀 代表取締役社長

1974年新潟県生まれ。1999年法政大学社会学部卒業。商社での勤務を経て、2003年親戚が経営する創業150年余年の道工具商社 株式会社髙儀に入社し、東京営業所配属。2011年中央大学大学院戦略経営研究科修了。2012年常務取締役を経て、2017年同社8代目社長に就任。

[編集]一般社団法人100年企業戦略研究所
[企画・制作協力]東洋経済新報社ブランドスタジオ

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