『我々はコロナ後の世界をどう生きていくのか?』④~堀内勉100年企業戦略研究所所長 就任記念コラム

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リーマンショックから10年余りが過ぎ、世界経済の順調な成長が続いていた中で、我々は突如、新型コロナウイルスの激震に見舞われました。この深刻な危機に際して、世界の著名な哲学者、思想家、経済学者などから多くの意見が表明されています。新型コロナウイルスが問いかけるものとは何なのか、そして我々はコロナ後の世界をどう生きていけば良いのか。

堀内勉氏が世界中の情報を読み解き、コロナ禍が我々に与えた気づきとコロナ後の社会の在り方について考察します。

今回は連載第4回最終回をお届けします。

コロナウイルスが我々に問いかけるもの

これまで、世界がどのように新型コロナウイルスに対峙してきたかを見てきましたが、翻って日本の対応はどうでしょうか。

今回のコロナ危機は、長期安定が続く自民党の安倍政権下で起こりました。自民党は、2010年の綱領で、「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組を充実する」と謳っています。また、2011年12月6日の野党時代に、『2012年度税制改正についての基本的な考え方』をまとめ、「国民に約束したことができず、国民に約束していないことを行おうとする民主党」に対し、社会の基本は「自助」であり、その一方で何らかのハンデイを背負った人たちには家族やボランティアによる「共助」、更に足らないところは、セーフティネットとしての政府や自治体による「公助」によるという同党の基本姿勢を強調しています。

しかし、今回、日本国民は本当に「公助、自助、共助」を実感できたでしょうか。戦後、日本ではすべての社会システムが戦後復興と経済発展のために再構築されました。集団就職などに見られるように、地方から東京への大量な人口移動が起き、人々は地域や自然から引き離された人工的な「会社」というコミュニティの中に吸収されていきました。そうした中で、すべてがお金に換算され、お金で清算され、お金がなければ何も始まらない社会を自ら構築してきました。

こうした現状について、評論家の真鍋厚は、本年4月8日の東洋経済オンラインの『緊急事態なのに通勤させられる人々が抱く危難 「生物的な限界」を織り込まない社会の弱点』と題する記事の中で、次のように書いています。

「美術批評家のジョナサン・クレーリーは、「連続的な労働と消費のための24時間・週7日フルタイムの市場や地球規模のインフラストラクチャーは、すでにしばらく前から機能しているが、いまや人間主体は、いっそう徹底してそれらに適合するようにつくりかえられつつある」と看破した(『24/7:眠らない社会』岡田温司・石谷治寛訳、NTT出版)。クレーリーは、睡眠という「生物的な限界」を否定するわたしたちの社会のあり方に焦点を当てているが、重要な点は、そのような「生物的な限界」が「あたかも存在しない世界であるかのように」振る舞ってしまっていることだ。これは働く側にもいえるかもしれない。心理的なストレス反応、あるいは風邪といった「生物的な限界」を抑え込み、「連続的な労働」が途切れることを回避するために、抗うつ薬や風邪薬といった生化学的なコントロールに頼ってきた。「生物的な限界」に屈することは社会レベルでは「経済的なロス」を意味するからだが、一方、個人レベルでは思いどおりにならない「生物的な身体」を「飼い馴らす」ことに執着する精神がある。今回の新型コロナウイルスの感染拡大では、わたしたちが依存している「24時間・週7日フルタイム」の経済システムそのものが、ウイルスに感染して病床に伏す身体という「限界状況」を想定していないことを暴いてしまった。(中略)筆者が最も懸念するのは、未知のウイルスがどれだけ蔓延して猛威を振るっても、「生物的な限界」を度外視した経済システムが「なし崩し的に」容認され続けることだ。政府は事業停止に伴う「膨大な損失(補償)」という経済リスクを恐れ、「通勤のための外出」に付随する生命や健康へのリスクを企業の問題にしたがり、多くの企業はそのような悪夢が待ち受けていることにあまり現実感を持っていない。」

しかも、「公助、自助、共助」どころか、今回のコロナ問題で明らかになったのは、日本という相互監視社会の実態でした。

文筆家の古谷経衡は、本年6月8日の東洋経済オンラインの『魔女狩りで市民が市民を罰し日本も分断される コロナで可視化された、加害者と被害者の溝』という投稿の中で、次のように述べています。

「太平洋戦争開戦直前の1941年11月25日に公布された、「改正防空法」があった。改正防空法は来るべき対アメリカ戦争への準備として、本土が空襲にさらされた際の国民の消火義務と、違反者に対する罰則を定めたものである。防空法は、その成立の背景はともかく、明確な罰則を設けたので、国民はそれに従った。(中略)今回のコロナ禍では、現代日本人が防空法の時代よりももっと監視的な、相互に他罰的な価値観を有している、という事実が浮き彫りになった。繰り返すように、防空法の違反者には罰則があったが、コロナ自粛の要請のへの対応は自由意志であり、違反でもなければ当然犯罪ではない。今回のコロナ禍では、国家による自粛「要請」は、あくまで”お願い”であり、罰則はない。お上による自粛要請に従うのも、従わないのも、市民の自由判断に任せられている。にもかかわらず、市民の自由判断は翼賛的な空気の中で、法的根拠に等しい事実上の強制力として、市民が市民を懲罰するという、自警団的行為にまで発展している。犯罪ではないもの(=不倫やマナー違反等)を、「不道徳である」「けしからん」「秩序を乱す」と言って私刑に処する行為を、私は”道徳自警団”と名付けた。これこそ、防空法の時代より他罰の根拠が希薄なため、もしかすると、現代日本人の意識は戦中よりも後退しているのかもしれない、とすら思う。何かの法に則らないで、お上が市民の空気感をこうも簡単に相互監視的に、自警団的に駆り立てることができるのであれば、もはや国家による法的根拠がなくても、市民はある一定の方向へ、お上がお願いするだけで誘導される、ということになる。罰則も法的根拠もなく、市民が市民を他罰できるのであれば、それは法治国家ではない。魔女狩りや私的制裁が跋扈した単なる中世社会である。コロナ禍が過ぎ去った後、禍中でいわれなき差別を受けた被害者と加害者、いわれなき攻撃を受けた被害者と加害者の溝が明瞭になる。自警団的行為に走った者(およびその幇助者)と、そうではない者、両者のどちらでもない者の三者間で、分断が可視化される。一旦、人々が社会に対して絶望すると、社会改良の機運は失われる。コロナ禍で差別や攻撃を受けた被害者が、「日本社会や日本人とはこの程度であったか」という深い諦観を抱くとき、社会をよりよくしようという気力そのものが削がれかねない。市民が市民を懲罰するという空気は、社会に害悪ばかりをもたらし、分断は不可逆的なほど深刻化する。」

中国のような、民主国家ではない情報統制社会においては、個人の権利としてのプライバシーが守られず、国家による監視社会化が急速に進んでいるのは周知の事実ですが、日本では国家によらない相互監視社会が自主的に形成されているのです。

今の日本政府の取り組み姿勢を見る限り、このコロナ危機に打ち勝って、来年、オリンピックを従来通り開催することで勝利宣言を行い、これまで通りの経済や社会に戻っていこうというのは明らかです。しかし、我々が築いてきた「生物的な限界を織り込まない社会」は、風邪を引いても会社を休めない、コロナウイルスが蔓延する中でも、満員電車に乗って会社に行かなければならない世界です。「熱中症警戒アラート(警報)」が発表され、「屋外での運動は原則中止」とされるような猛暑であっても、そうした不都合な真実はなかったことにして、オリンピックを開催しなければなりません。そして、その根底には、「お金がなければ何もできない」社会構造があるのです。

これが、コロナウイルスが我々に気づかせてくれた二つ目のポイントである、今更ながらに「お金」の大事さを思い知らされたという点です。「お金の大事さ」というのをもう少し正確に言えば、「我々は最早、お金がなければ何もできない世界を自ら構築し、自らのその枠の中に捉われてしまっていて、そこから出ることができない」ということです。

実は、これは日本だけに限ったことではありません。アメリカにせよヨーロッパにせよ中国にせよ、まずは日々の生活の糧としてのお金が必要で、そこがすべての出発点だと分かっているからこそ、世界各国は国民に対して現金の支給を始めとした、大規模な経済対策を打ち出しました。

少しでも金融に携わった人であれば分かることですが、同じ価値を実現するのにも、時間がかかればかかるほど投資効率は低下します。効率性というのは、お金の価値を時間軸の中で計測するということです。投資回収にかかる時間が短ければ短いほど、その投資効率はアップして、投資の現在価値は高くなります。そうした社会構造の中で、我々は時間に追い詰められているのです。

今回のコロナ危機で、感染症関係の本が改めて脚光を浴びていますが、その中に『感染症の世界史』というものがあります。世界中を飛び回って取材していた元新聞記者が、自ら様々な感染症にかかった経験から語るのは、「感染症は忘れた頃にやってくる」ということです。

我々は、「医学の発達によって感染症はいずれ制圧される」と信じてきました。1980年にWHO(世界保健機関)が天然痘の根絶を宣言した時に、この期待は最高潮に達しました。ところが、今度は、HIV(エイズウイルス)が想像を超える速度で広がり、エボラ出血熱、デング熱、西ナイル熱が流行し、更に、インフルエンザウイルスが、毎年、次々と新型を繰り出してきて、結核までもが復活してきました。我々現代人が忘れているのは、人間が免疫力を高めて防疫体制を強化すれば、病原体もそれに対抗する手段を身につけ、生き延びてきたという事実です。

感染症が人類の脅威になったのは、農業や牧畜によって定住化し、集落が発達し、人同士あるいは人と家畜が密接に暮らすようになってからのことです。特に、最近の感染症は、グローバリゼーションや都市化と密接な関係があります。

他方、最近の研究で、ウイルスというのは時間の経過と共に弱毒化して人間と共生することが分かっています。例えば、1980年代の流行初期と2000年代のHIVを比較すると、病原性が低くなり弱体化してきていて、50~60年後には無害なタイプに変異する可能性もあるそうです。病原体が宿主に感染してから長い時間をかけて共進化すると、遂には宿主に重大な病気を引き起こすことなく共存状態になります。病原性が強いままだと宿主を殺して共倒れになる恐れがあるからです。実は、それ以前にも、梅毒や赤痢など多くの細菌やウイルスが、宿主の免疫システムと折り合いをつけて共存するようになってきたのです。

アフリカでは最初からHIVに耐性を持っている人がほとんどいないのが、北欧では人口の18%もいるそうです。これはアフリカから旅立った人類が北欧に到達するまでの間に天然痘などの感染症にかかったことで、免疫に関与するタンパク質の遺伝子が変容したためではないかと言われているそうです。変容するのはウイルスだけでなく、人間自体もウイルスから身を守るために、時間をかけて変容するのです。こうしたことから分かるのは、現代人が求められる「効率性」の時間軸が余りにも短かすぎるということです。我々がウイルスと共生するためには、お互いが変容するための、相応の「時間」が必要なのです。

おわりに

それでは、こうした状況を理解した上で、我々はコロナ後の世界をどう生きていけば良いのでしょうか。

まず必要なのは、我々は否が応でも既にこの資本主義という強力なシステムの上に乗っていることを、改めて自覚することだと思います。今回のコロナ危機ではっきりと分かったように、今や経済人類学者のカール・ポランニーが『大転換』の中でブレイクの詩を引用して語ったように、グローバル市場経済という「悪魔の挽臼」は地球上のすべてを覆い尽くし、世界の78億人を一人残らず巻き込み、すり潰しています。我々はもはや、自分が置かれているこの現状を無視して生きることはできません。

従って、ある程度の経済成長を実現しなければ、どうしても「貧すれば鈍す」になってしまいます。我々は一旦、「お金がなければ何もできない」資本主義のゲームを始めてしまった以上、そこから降りるためには、一定の段取りを踏まなければなりません。つまり、経済成長一辺倒の世界からの脱出を軟着陸させるためにも、しばらく一定程度の経済成長は欠かせないということです。しかしながら、それは「悪魔の挽臼」のように、一旦動き出したら止まらない「成長のための成長」ではなく、「成長という価値観から抜け出すという最終ゴールを見据えた上での成長」であるべきです。

次に、環境問題や格差問題などをはじめとして、今の世界の経済システムには明らかに持続可能性がなく、我々個々人の人間性を日々すり潰し、その精神を蝕んでいます。コロナ危機は、こうした現代社会が抱える矛盾を、我々の前にはっきりとした形で示してくれました。そうした中で、もう一度、「社会」や「共同体(コミュニティ)」の再定義・再構築を行わなければなりません。今回のコロナ危機では、アガンベンやガブリエルが指摘するように、「国家」がすべてを超法規的にオーバーライドして、我々の自由や道徳を脅かす権力として再び立ち上がってきました。

今回のコロナ危機で示された、我々をすり潰すグローバル市場経済と我々の自由を脅かす国家という存在の対立という構図の中で、個々人の居場所はどんどん小さくなっています。こうした大きな構図を自覚した時に、我々が取るべき行動は、ただ元の「ノーマル」に戻ることではないのは明らかです。我々が「ニューノーマル」として目指すべきものという視点からは、会社に通うとか通わないとかという些末な問題だけではなく、このような社会構造が変わるのか変わらないのか、「悪魔の挽臼」は止まるのか止まらないのか、我々が拠って立つ共同体を再構築できるのかできないのかが重要なのです。

そして本当の意味でのニューノーマルを実現するためには、頭だけで考えて批判だけするのではなく行動すること、行動するだけではなく必死に考えること、今ある矛盾を打ち壊すこと、ただ打ち壊すのではなく創造することです。つまり、よりメタ(高次)な視点から、我々人類が幸福になるために、自分は本当に何をすべきかを良く考えて行動することです。今はこうした大きな構想力と、行動する個人としての覚悟が問われている時代なのです。

[参考文献]
石弘之「感染症の世界史」,角川ソフィア文庫,2018年
カール・ポランニー「大転換」 野口 建彦他(訳),東洋経済新報社,2009年
サミュエル・スマイルズ「自助論」,パンローリング社, 2013年
古谷経衡「魔女狩りで市民が市民を罰し日本も分断される コロナで可視化された、加害者と被害者の溝」(2020/06/08),
東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/353642 (2020/6/14検索)
真鍋厚『緊急事態なのに通勤させられる人々が抱く危難 「生物的な限界」を織り込まない社会の弱点』(2020/04/08),
東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/343073(2020/5/11検索)

著者

堀内 勉

一般社団法人100年企業戦略研究所 所長

多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長。 東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、Institute for Strategic Leadership(ISL)修了、東京大学 Executive Management Program(EMP)修了。日本興業銀行、ゴールドマンサックス証券、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員CFO、アクアイグニス取締役会長などを歴任。 現在、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事・アート委員会共同委員長、川村文化芸術振興財団理事、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、社会変革推進財団評議員、READYFOR財団評議員、立命館大学稲盛経営哲学研究センター「人の資本主義」研究プロジェクト・ステアリングコミッティー委員、上智大学「知のエグゼクティブサロン」プログラムコーディネーター、日本CFO協会主任研究委員 他。 主たる研究テーマはソーシャルファイナンス、企業のサステナビリティ、資本主義。趣味は料理、ワイン、アート鑑賞、工芸品収集と読書。読書のジャンルは経済から哲学・思想、歴史、科学、芸術、料理まで多岐にわたり、プロの書評家でもある。著書に、『コーポレートファイナンス実践講座』(中央経済社)、『ファイナンスの哲学』(ダイヤモンド社)、『資本主義はどこに向かうのか』(日本評論社)、『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP)
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