創業200年のエンドー鞄「歴史で飯は食えない」
〜流通改革から「静かなキャリーバッグ」開発まで〜

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日本有数のカバンの産地、兵庫県豊岡市で文政7(1824)年に創業したエンドー鞄は、使う人の立場に立った機能性の高いバッグで知られる老舗カバンメーカー。近年では、走行音が圧倒的に静かなキャリーケース「FREQUENTER」が、多くのメディアで取り上げられるほどの人気商品になっています。時代が大きく変化する中で200年もの間、企業を引き継ぎ、発展させる経営について、8代目の遠藤玄一郎社長に聞きました。

最も大切なのは「必要とされる企業」であること

兵庫県の日本海側に位置する豊岡市は、カバンとコウノトリの町として知られています。もともと豊岡市は杞柳(きりゅう)で編んだ箱型の入れ物である柳行李(やなぎごうり)の産地で、一説によるとその製造技術は紀元前27年ごろに伝えられたとされ、奈良時代にはこの技術を使った「柳箱」が東大寺の正倉院に上納されています。

エンドー鞄は、ちょうど200年前の文政7年(1824年)に柳行李の卸商を始めました。その後、時代が変化し求められる商品が和風から洋風の製品へ、そして材料もファイバーやビニールレザー、ナイロンへと変わっていく中で、エンドー鞄も大胆に変貌を遂げていきました。
老舗ではありますが使いやすさにこだわった機能性の高いチャレンジングな製品を世に送り出しているのが同社の特徴で、たとえば走行音が圧倒的に静かなキャリーケース「FREQUENTER」は大ヒットし、テレビをはじめ多くのメディアで取り上げられています。

「『鞄ひとすじ』。これは先代の父が好きだった言葉で、こうやって200年も経営を続けてこられたことは誇りであり、大変うれしく思っています。ただ、『歴史で飯は食えない』とも思っていまして、いくら『うちは歴史がありますよ』と言ったところで、お客様に欲しいと思ってもらえるような商品やサービスを提供できていなければ当然、買ってはいただけません。我々が一番大切にしているのは『必要とされる企業』であるということです」

8代目の遠藤玄一郎社長はそう語ります。
だからこそ、バッグを通じ地域社会に貢献し、地方から発信できる企業を目指す。顧客満足度の高いバッグを提供し、世界中にワクワクを届ける会社になる。社員をお互い尊重し合い、社員の生活が守れる企業である。創業200年の歴史を重んじながら、常にチャレンジし続ける企業である――。そんな経営方針をエンドー鞄は掲げています。

経営危機を脱したエンドー鞄、起死回生の商品とは?

遠藤社長がエンドー鞄に入社したのは40年前。父親からは厳しく育てられましたが就職については何も言われておらず、商社に就職するつもりで就職活動をしていた時に、母親から連絡がありました。
「お父さん、会社が大変みたいよ。夜眠れなくてタバコをスパスパ吸っているわ――」
この話を聞いて、遠藤社長はエンドー鞄への入社を決めました。ただし、父親からは「長男だからって社長になれるなんて思うなよ」と特別扱いはされず、大阪支社の営業マンからキャリアをスタートさせます。しかし、実力主義の世界で最下位から徐々に営業成績を上げていきました。
そして入社後1年ほど経ったころ、会社に経営危機が訪れます。主要取引先2社が倒産して大きなダメージを受けたのです。「エンドー鞄も危ないのではないか」と噂が立つほどでした。

「そんな状況の中で、先代社長から『起死回生の商品を作れ』と言われたのですが、私はファッションセンスがなかったのでずいぶん悩みました。ただ、その頃のカバンは外見にお金はかけるが内部にポケットがなかったので、中身がぐちゃぐちゃになってしまっていました。そこで持ち物の整理がしやすいように内部にポケットを付けたカバンを作ったらどうか、と思いつきました。今では普通にある商品ですが当時はなかったので、1億人も人口がいれば10万人や20万人くらいは買ってくれる人がいるんじゃないだろうかと」

製造の手間が増えるためメーカーには渋られましたが、何とか頼み込んで販売を始めたところ、店頭に置けばすぐ売れる大ヒット商品になりました。機能性の高いバッグのはしりとなったこの商品の累計販売数はなんと200万本を超え、文字どおり起死回生の商品となってエンドー鞄は経営危機を脱することができました。

チャレンジの連続の結果が伝統になっていく

実績をあげた遠藤社長は専務、社長と昇進し、経営を任されるようになります。
「30歳で専務になった時から、先代は『おまえの思うようにやってみろ』と言って、ほとんど経営に口出ししませんでした。ただ、価格破壊がはやった時代に、値段で勝負するような商品だけは作るなとは言われました」
遠藤社長は商品開発だけではなく、流通面でも大きなチャレンジをしました。メインの販売先を問屋から小売店にシフトしたのです。

「私が社長に就任した頃は地方問屋経由の販売がメインだったのですが、価格破壊の波が来て値段のことばかり言われるようになっていました。社内でも価格のことが議論になる一方で、若手社員から『これからはハンズで売らないとダメ』という意見が出てきました。この若手の意見を取り入れ、問屋さんに『ハンズにうちの商品をもっと売ってもらえませんか。もし難しければ直接、商品を売ってもいいですか』とお願いしたところ、多くの問屋さんは『直接売っていいですよ』と言ってはくれました。ただ、その問屋からの注文が見事になくなりました。合計で8,000万円くらい取引がなくなったので、最初はとても苦労しました。しかし、ありがたいことにハンズ向けに開発した商品が高い評価を得てよく売れまして、これをきっかけに他の小売店さんにもたくさん扱ってもらえるようになっていきました」

ただし、チャレンジしてもうまくいかないケースは当然起こります。だからたった1回挑戦しただけでうまくいくほど簡単ではないことを念頭に置いてチャレンジを繰り返しながら、成果を出す精度を高める努力を遠藤社長はしてきました。同時に背伸びしすぎたチャレンジは危険なので、大きすぎるリスクは取らないようにしています。
「圧倒的に静かなキャリーケースは発売してから10年くらいになりますが、いまだにうちより静かなキャリーケースは出てきていません。こうしたチャレンジをたくさん行い、新しい商品を出していくことによって注目も集まるし、伝統もついてくるのだと思います。

『老舗を継ぐプレッシャー』について聞かれることもありますが、企業寿命30年説もある中で200年も続くこと自体、おかしいんです。いつ潰れたっておかしくはない。もちろん社員を路頭に迷わせてしまうので潰してはいけないけれど、潰したら、あるいは失敗したらどうしようなんて考えたところで何も生まれません。そんなことを考える時間があったら、まず行動することが大切だと思っています」

遠藤社長は、9代目の社長に、200年の歴史で初めて社員からの登用を検討しています。変化の激しい現代では、「歴史で飯は食えない」を地で行くからこそ、会社の歴史が積み重なっていくのかもしれません。

お話を聞いた方

遠藤 玄一郎 氏(えんどう げんいちろう)

同志社大学経済学部卒業後、エンドー鞄入社。営業からキャリアをスタートさせ、新商品開発や流通改革などを手掛けて、経営を安定させる。200年企業でありながら、チャレンジングな施策を打ち続けている。

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