日比谷松本楼、老舗の看板を守るための攻めの再開発参画
2度の焼失とコロナ禍を支えた「地域共生」と「先見性」

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目次

皇居外苑に隣接した日比谷公園の森の中に本店を構える日比谷松本楼は1903年創業の老舗レストランです。現在は本店で洋食レストランと仏蘭西料理レストラン、個室・宴会場を営業するほか、大学や病院等に6つの支店を出店しています。華やかな印象のある日比谷松本楼ですが、これまでに2回焼失の憂き目に遭い、コロナ禍では都心立地が災いして集客面で大きなダメージを受けました。こうしたさまざまな困難をどのようにくぐり抜けてきたのか、代表取締役社長の小坂文乃氏に伺いました。

「中国革命の父」も通った歴史の舞台

明治36年(1903年)、日本初の洋式公園として開設された日比谷公園とともに、日比谷松本楼は同公園内で営業を開始しました。
当時、珍しかった洋食レストランは評判を呼び、ハイカラ好きなモボやモガの人気を博したほか、夏目漱石や高村光太郎をはじめ多くの文人が集まる場所になりました。
「明治の役人さんは『洋風の公園には3つ特徴がある』と言ったそうです。1つ目は花壇。2つ目は音楽を聴ける場所ということで、日比谷公会堂と大小の野外音楽堂が作られています。そして3つ目が食事のできる場所で、設計段階から公園の中心にレストランを作ることが計画されました。
一方、当社の創業者の小坂梅吉は日比谷松本楼ができる前、銀座で割烹店の松本楼を経営していました。このお店が繁盛し、多額の納税をして後に貴族院議員にもなる彼は入札で営業権を取得し、洋風の公園で洋風文化を伝える洋食レストランを開きました」
4代目の小坂文乃社長は、日比谷松本楼が誕生した経緯をそう説明します。
華麗な歴史を誇る日比谷松本楼ですが、2回も建物を焼失する困難に見舞われています。1回目は1923年の関東大震災。2回目は1971年、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で行われた際、過激派が投げた火炎瓶により全焼したのです。
「2回目に焼失したときは資金繰りが大変だったようで、『もう再建できないかもしれない……』という状況でした。しかし事件が報道されると全国から『松本楼がかわいそうだ』『頑張って再建して』という声が寄せられて、そのお声に父と祖父は励まされ、融資も受けられるようになって再建に踏み切れました」
再オープンしたのは1973年9月25日です。感謝の気持ちを込めた記念行事として、「10円カレーチャリティーセール」を開催しました。その後も毎年この行事は続けられています。物価が上がった現在は創業年数の金額でカレーを提供し、全額を寄付に充てています。
またカレーチャリティーに加え、「日比谷公園丸の内音頭大盆踊り大会」や「日比谷音楽祭」など、地域の交流や賑わい創出への貢献にも力を入れているのが日比谷松本楼の特徴です。

大企業との業務提携で新たなステージに

小坂社長は2人姉妹の妹で、当初は事業を継ぐ意思はなく、大学卒業後は磁器やガラス製品で有名なWaterford Wedgwoodの日本法人に勤めていました。
ところが姉がお見合いで急きょ結婚を決め、しかも夫の海外赴任でシカゴに行ってしまったため、後継者として小坂社長に期待が集まるようになり、24歳で日比谷松本楼に入社しました。自ら希望して調理場からスタートし、次に経理、そして企画やマーケティングと経験を重ねていきました。

「霞が関が近くなので、父の時代はお客様は官庁関係の男性が中心でした。しかし官官接待事件等もあり、この流れが止まり、私の出番になりました。一般の女性のお客様にも来てもらわなければダメだということで、レディースランチを始めたほか、新しいメニューの開発や持ち帰り商品の企画等を行っていきました」

社長に就任したのは2017年。「先代の父がインフルエンザで高熱を出した後、金庫の暗証番号を思い出せなくなったのがきっかけでした。昔気質のワンマン社長だったので、重要なことは他人に教えていなかったのです」

創業100年を超える老舗を承継して小坂社長がまず取り組んだのは、まだあまり知られていないが優れている日本各地の食材の発掘と発信です。創業時、まだ日本では珍しかった洋食が、今や一般に普及し、さらに世界中の美味しい料理が食べられるようになった現在、今度は「東京のど真ん中から日本のよいものを発信するレストランにしたい」(小坂社長)と考えたのです。
たとえば壱岐島で育てられた、高品質で希少な壱岐牛を「幻の銘牛」として売り出したり、東京の孤島、青ヶ島で女性の生産者が地熱蒸気を使って作る「ひんぎゃの塩」をステーキに添えて出したりしました。

また、従業員教育にも注力しています。社内で料理コンテストを開催し、若くても優秀な人材は外部の研修や海外に派遣したり、サービス部門の従業員には各地のワイナリーや酒蔵を見学する機会を設けたりしています。
伝統的な飲食業ではどうしても徒弟制度的な指示・命令の関係になりがちですが、小坂社長は個々人の技術レベルを上げていくと同時に、チームとしてもっと風通しをよくしていこうと考えたのです。

こうした取り組みで日比谷松本楼の事業承継は順調にいくかに見えましたが、突然、思わぬピンチに見舞われました。2020年に始まった新型コロナウイルスの感染拡大です。東京の真ん中にある日比谷周辺からは人が消え、大人数での会食は自粛となって、売り上げの柱である宴会需要がパタッと消えてしまいました。
飲食業への国や地方自治体からの助成金はありましたが、従業員が約80人いるため、まったく足りません。そこで小坂社長は内部留保を取り崩し、自身の保険も全部解約して資金繰りに充てつつ、大きな決断を下しました。
「一時は経営をやめることも頭をよぎりましたが、私の代で日比谷松本楼の看板を下ろすわけにはいきません。また、一方では日比谷公園に隣接するエリアの再開発構想が進んでいて、周りの環境がどんどん変わっていく中で、私たちだけ取り残される恐れもありました。

どうすれば日比谷松本楼を残せるか。それには地域開発と一体になるのが大切だと考え、2018年3月にオープンした複合型商業施設の東京ミッドタウン日比谷を手掛けた三井不動産と2021年3月に業務提携に関する協定を締結しました。外部資本の受け入れに周囲の人たちからは驚かれましたが、これで日比谷の再開発と一緒に松本楼の名前も残せると、最善の決断ができたと考えています」
この提携は、大企業のしっかりした組織運営手法を取り入れるメリットも大きかったそうです。
三井不動産をはじめ日比谷公園に隣接する内幸町1丁目の開発を推進する10社は連名で2022年3月に「TOKYO CROSS PARK構想」を発表しました。そこでは日比谷公園と街を道路上空公園でつなぎ、公園と一体となった街づくりが構想されています。
周囲の環境が大きく変化していく中、レストランとしての品質向上はもちろん、歴史的・文化的価値を生かした地域への貢献や、前述したアジア友好の場としての活動を行っていくことで、自社の位置づけを「明治から続く老舗レストラン」から「社会的に意味のあるレストラン」へ発展させ、日比谷松本楼の看板を次代につなげていきたいと小坂社長は意気込んでいます。

お話を聞いた方

小坂 文乃 氏(こさか あやの)

株式会社日比谷松本楼
代表取締役社長

東京都出身。立教大学社会学部観光学科卒業。中学・高校時代を英国にて過ごす。大学卒業後、Waterford Wedgwood Japan株式会社入社し、マーケティング部所属。その後、日比谷松本楼入社。現在、代表取締役社長。立教学院評議員・立教大学校友会副会長、シャンパーニュ騎士団シュヴァリエ、日本フードサービス協会JF厚生年金基金理事、JF健康保険組合理事。

[編集] 一般社団法人100年企業戦略研究所
[企画・制作協力]東洋経済新報社ブランドスタジオ

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