東京都心のオフィス開発の動向
八重洲・日本橋・京橋エリア

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目次

1.東京都心のオフィス開発

東京の都心の拠点として大手町・丸の内・有楽町、赤坂・六本木・虎ノ門、日本橋・八重洲・京橋、新宿、渋谷などがビジネス・商業センターとして存在し、それらは東京駅から6キロ圏内という至近のエリアに集積する。こうした都心の拠点の存在は、240年有余にわたる徳川幕府による江戸の街づくりに端を発している。幕府が建設した江戸城を中心にその周辺に大名の上屋敷、下屋敷を配し、面積的には20%に満たない町人地が存在し、さらにその外側に新たな宿場町が形成されていくが、これが明治期の大政奉還による近代化に伴うエリアとして先導的に都市開発が行われ、現在の拠点の発展に連なっている。さらに大正期に至ると山手線が完成し、江戸城外にあった新宿、渋谷、池袋などがサブセンターとしての成長をしていく。その結果、世界に例がないユニークな多拠点を持つ都心が造りだされることになった。そして、これらの大規模拠点の隙間に新橋・汐留、浜松町・田町、麹町、四谷、神田、秋葉原などの多くのサブエリアが存在している。

この中で、先行的にオフィス開発が進むエリアに対して、開発の波が及びつつさらに発展性の高いエリアの一つとして日本橋、八重洲、京橋エリアの分析を進める。

2.ビジネスセンターの出発点-丸の内

明治期の近代化を目指す日本のエンジンとして明治政府が注力したのは、現在の丸の内のエリアの国有地を民間に払い下げて、西洋列強に太刀打ちできるビジネスセンターを創り出すことであった。明治政府による丸の内オフィス開発は、政府の土地払い下げ政策に基づき、民間企業である三菱財閥(現・三菱地所)によって推進された。政府は民間の力を活用して日本の近代化と都市開発を進めるという方針をとったのである。

江戸時代に丸の内一帯は大名屋敷地であったが、明治維新後にそれらの多くが政府に没収された。1890年(明治23年)に明治政府は財政難からこの広大な土地を三菱社の社長であった岩崎彌之助に当時の金額で約128万円で払い下げた。当時の政府の年間予算額はおおむね1億円であったので、その1~2%に相当する巨額であった。大名屋敷地の跡地は「三菱ヶ原」と呼ばれた草の生い茂る荒地であった。政府は民間の資本と活力を導入して東京の都市機能の近代化を図ることを意図したのである。そのため、都市計画の枠組みをつくり、道路などのインフラ整備を進めた。それまで鉄道の起点は新橋(現在の汐留)であったが、丸の内に隣接する形で1914年(大正3年)に東京駅を開業させ、丸の内がビジネス街として発展する大きな原動力となった。

土地を取得した三菱は、イギリスのロンドンの街並みを手本に、近代的なオフィス街の整備に着手する。最初の近代的なオフィスビルである「三菱一号館」はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計指導によって1894年(明治27年)に竣工した。一丁倫敦(いっちょうろんどん)と呼ばれるロンドンのカーナビー・ストリートを模した赤煉瓦造りのオフィスビルを次々に建設していく。丸の内は、日本初の本格的なオフィス街として発展し、その後多くの企業が本社を構えるビジネスセンターとしての地位を確立していく。

そのビジネスセンターのエリアは北の大手町、南の有楽町に広がり通称大丸有と呼ばれるが、現在、このエリアには約100棟のビルに約5,000事業所が集積し、約35万人が就業している。100社を超す上場企業本社が立地し、そのうちFORTUNE GLOBAL 500のリストにある本社は19社となる日本屈指のビジネス拠点となっている。

3.八重洲・日本橋・京橋エリア発展の歴史的経緯

東京駅の西側で皇居に面した丸の内は政府の目論んだビジネスセンターとして大正から昭和にかけて急速な発展を遂げて現在に至る。これに対して東側の八重州側の開発が進むのは戦後になる。東京駅東口は八重洲一丁目にあるため、八重洲口と呼ばれることになるが、戦後、丸の内が米軍の接収にあったため、西側のビジネスセンターである丸の内・大手町に遅れる形でビジネスセンター化が進んだ。北に日本橋、東に京橋が位置し、21世紀に入ると大規模開発が始まり、八重洲・日本橋・京橋エリア一帯が新たな都心のビジネスセンターとしての力をつけ始めている。丸の内エリアとの最大の相違は、日本橋・京橋エリアは江戸時代に商業の中心地であったことである。荒地に新たなビジネスセンターを建設した丸の内と違って商業地の街並みが残る中での再開発という手法が必要になることである。

(1)八重洲

江戸城の東に位置し、古くから城下町として発展した八重洲・日本橋・京橋エリア。1914年に東京駅が開業し、1929年に八重洲口が開設されてからは、東京の玄関口としての存在感を高めてきた。現行の行政地名の八重洲は、中央区の西部に位置する南北方向に長い長方形状の区画である。西はおおむね外堀通り付近(旧江戸城外濠)を境界として千代田区丸の内・大手町と隣接する。北は日本橋川を隔て日本橋本石町、北東角(西河岸橋上の一点)で日本橋室町と接する。西河岸橋から八重洲仲通り―柳通りと名称の変わる一連の道路が東の境界となっており、日本橋・京橋と接する。また、南では東京高速道路(旧京橋川)付近を境界として銀座と隣接する。八重洲には一丁目と二丁目があり、ほぼ中央を横に走る八重洲通りを挟んで北側が一丁目、南側が二丁目である。

江戸時代には、「桶町」「南鍛冶町」「呉服町」など、職人や商人に関連する町名が並んでいた八重洲エリアであるが、現在の「八重洲」の地名は、かつてこの近くに屋敷を構えたオランダ人航海士「ヤン・ヨーステン」の名に由来すると言われている。そもそもは現在の和田倉門あたりにあったものが、現在の東京駅の東側に移ったとされている。八重洲通りにはこのヤン・ヨーステンの記念碑があるほか、今年で開業60周年を迎えたヤエチカにも像が設置され、シンボルとして親しまれている。

第二次世界大戦の空襲で八重洲地区は被災したが、戦後の復興事業が進められていくなかで、戦災で発生した瓦礫の処理のために外濠や京橋川が埋め立てられ、東京駅の八重洲側への拡張工事が行われる。

戦後は丸の内のオフィスが一時期GHQに徴収されてしまったため、多くの企業が八重洲に拠点を移転させ、一時的に八重洲の地価が暴騰した歴史が残されている。現在の急速なオフィス開発の素地が存在していた。

(2)日本橋

日本橋の歴史がはじまったのは、江戸幕府が開かれてすぐである。1603年、江戸幕府ができたのと同時に、橋である日本橋も架けられた。翌年の慶長9年に五街道の起点として定められると、全国各地から多くの人や物、そして文化が集まるようになり、江戸の一大商業センターとなっていった。橋の両側には、北に後の三越となる三井越後屋呉服店、今は日本橋から撤退しているが後の東急百貨店となる白木屋も南に誕生している。江戸時代に日本橋が架けられてから、止まることなく発展を続け、今へといたっている東京でもっとも歴史を持つ街となっている。

日本橋エリアは日本橋川などを中心に水運も発達したことから、今の魚市場にあたる魚河岸もあった。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災で被災し、築地へと移転することになる。これが後に築地市場として発展を遂げるが、結果から言えば日本橋から魚河岸がなくなったことで、市場ではないオフィスや商業エリア形成の基盤が広がったことになる。1902年(明治35年)に建てられた三井本館も関東大震災で大きな被害を受けて取り壊されたが、1929年(昭和4年)に建て直され、関東大震災級の地震に耐えうる耐震性の高い建物となった。三井本館は、現存する日本最古の本格的なアメリカンタイプのオフィスビルとして、歴史的に価値のある建物として知られている。

日本橋と称するエリアは広く、中央区で町名に日本橋とつくものは"小伝馬町・人形町・水天宮前エリア"では、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町、日本橋久松町、日本橋蛎殻町、日本橋小舟町、日本橋中州、日本橋箱崎町、日本橋小網町、日本橋浜町、日本橋人形町、日本橋富沢町がある。 "浜町・馬喰町・東日本橋エリア"では、日本橋馬喰町、東日本橋、日本橋小伝馬町、日本橋横山町がある。橋の北側にあたる "三越前エリア"では、日本橋本町、日本橋室町、日本橋本石町がある。

本稿で八重洲・日本橋・京橋として対象とする日本橋は狭義の日本橋で、日本橋川の南側の日本橋一丁目、日本橋二丁目、日本橋三丁目である。

このエリアには野村ホールディングス(一丁目)、東海東京フィナンシャル・ホールディングス(二丁目)、コーセー(三丁目)、など、金融・化粧品・食品・製薬・情報通信といった多様な業界の有名企業が本社や主要拠点を構えている。

(3)京橋

日本橋の南側に位置する京橋は、江戸時代には近隣の地域と共にお店が並んでおり、主に青物市場が開かれていた。そこから、参勤交代をしている藩士たちに生活必需品を供給するため、色々な訪店が増えていった。全国各地からさまざまな商人が集まるようになり、京橋や日本橋のあたりは徐々に繁華街として発展していく。また、物資を運ぶために、京橋川や日本橋川が設けられ、河岸も同時に増えていった。また、商人だけでなく、竹を扱う職人などの力を借りながら、竹河岸が造られていく。

明治にはいると、現在港区にある金杉橋の間にガス灯ができ、橋もリニューアルされ、石造りのアーチ橋となる。1876年(明治9年)になると京橋から新橋にかけて銀座のレンガ街が完成し、落ち着いたモダンな街へと成長していく。2年後には京橋区となり、街並みとしての京橋が広く知られるようになる。大正時代になると、京橋地区のランドマークにもなった第一相互館ができるが、1923年の関東大震災で京橋と南に位置して落ち着きのあるモダン街としての象徴だった銀座レンガ街は大きな被害を受けた。

昭和に入って銀座線京橋駅が開業するが、北の日本橋駅、南の銀座駅に比べると小規模なものであった。昭和22年に独立していた京橋区は隣の日本橋区と合併し、その後現在の中央区になる。江戸時代から使われていた京橋は、川が埋め立てられるのをきっかけに撤去され、現在は記念碑だけが残されている。

京橋
京橋駅とTODA BUILDING

(筆者撮影)

4.八重洲・日本橋・京橋エリアの状況

(1) 由緒ある街並みがオフィス街に生まれ変わる

JRの新幹線・在来線および東京メトロ丸ノ内線が乗り入れる東京駅を基点に、駅の東側に広がる八重洲・日本橋・京橋エリアは、高速バスターミナルも備え、東京と日本全国を結ぶ一大拠点となっている。なかでも駅の近くに位置する八重洲エリアは、交通の要衝であるとともに、開業60周年を迎えた国内最大級の地下街「ヤエチカ」や「東京駅一番街」など、サラリーマン向けから観光客向けまで、幅広い飲食店や都市機能が集積し、新旧が融合するオフィス街として注目を集めてきた。


隣接する日本橋エリアは、江戸時代の五街道の出発地点だったこともあり、歴史と伝統が息づく落ち着いた商業地の性格を有する。京橋エリアには、個性的なオフィスビルや商業施設、アート関連施設などが立ち並ぶ。3つのエリアはそれぞれの特色を生かしつつ連携し、多くの人を呼び込む再開発が進みはじめ、圧倒的な交通利便性に加えて回遊性やさまざまな都市機能が強化され、大きく生まれ変わろうとしている。

(2)世帯数と人口

(八重洲)

このエリアの世帯数と人口は少ないが、八重洲一丁目は18世帯で人口31人、八重洲二丁目の人口は10世帯で人口12人である。(2025年12月1日現在、中央区発表)

なお、事業所数と従業員数は、八重洲一丁目が306事業所で従業員数13,704人、八重洲二丁目が495事業所で従業員数10,522人となっている。合計で801事業所、従業員数は24,226人となっている。(2021年の経済センサス調査)

(日本橋)

日本橋一丁目は41世帯で人口55人、日本橋二丁目は44世帯で人口64人、日本橋三丁目は118世帯で人口183人で、合計で203世帯302人である。

なお、事業所数と従業員数は、日本橋一丁目が506事業所で従業員数17,123人、日本橋二丁目が701事業所で従業員数28,605人、日本橋三丁目が729事業所で従業員数20,324人となっている。合計で1,936事業所、従業員数は52,716人となっている。

(京橋)

京橋一丁目は54世帯で人口65人、京橋二丁目は62世帯で人口91人、京橋三丁目は63世帯で人口77人で、合計で177世帯 233人である。

なお、事業所数と従業員数は、京橋一丁目が524事業所で従業員数13,263人、京橋二丁目が698事業所で従業員数25,745人、京橋三丁目が453事業所で従業員数13,708人となっている。合計で1,675事業所、従業員数は52,716人となっている。

(エリア全体)

以上の3地区のデータを合計すると、このエリアの人口は422人、従業者129,658人となる。居住率はわずか0.4%ということになるが、すなわち、住宅地ではなくて典型的な商業・業務地区であることが分かる。ただし、最近の都心回帰と大規模開発事業における住宅供給の動きのなかで、居住者数は増える可能性は高い。現在、八重洲二丁目の人口は10世帯で人口12人であるが、大規模開発が行われる前の人口は0人であった。

(3) 街をパワーアップする再開発が進行

八重洲・日本橋・京橋は、東京を象徴するエリアのひとつであり、国はエリア内の複数の事業を国家戦略特別区域の特定事業に認定し、東京都は同エリアを都市再生特別地区に指定し、土地の高度利用を促している。中央区は「まちづくりガイドライン」のなかで、「安全で快適な回遊性の高い国際都市東京の玄関口」の形成を将来像として掲げ、隣接するエリアとの連携によって、都市の活性化に向けた取組みを積極的に展開している。エリア北部の日本橋川沿いでは、個性ある大規模な開発が進められている。東京オリンピックにむけて急遽1963年に開通した首都高速道路は、日本橋エリアでは川の上空に橋脚を建設し、歴史的な遺産である日本橋の上も通過させるという現在であれば暴挙とも言える突貫工事であった。長い議論の末にこの区間の地下化が決定され、高架橋を撤去するための工事が始まっており2040年度には川辺と空が戻ってくる。

一方、東京で初めての高速道路であった数寄屋橋川の埋め立てで建設されたエリア南側の東京高速道路(KK線)が、新たな都市環状ルートへの接続整備によって、高速道路としての機能が不要となることで歩行者中心の公共空間「Tokyo Sky Corridor」として活用されることになった。ニューヨークの「High Line」を契機に始まった高架道路、高架鉄道の跡地の歩行者空間への転換が東京の都心でも実行に移されることになった。これによって隣接するビルへの接続でアクセスが行われ、利便性の向上のみならず、災害時の避難動線の確保にも役立つことになる。これによって、現在、高速道路で遮断されているこのエリアから銀座エリアへの歩行者アクセスが飛躍的に高まる効果を生むことになる。

Tokyo Sky Corridor

(中央区)

また日本橋川北側のエリアとの機能連携が図られている。例えば、八重洲の東京駅前3地区の開発は、役割分担と機能連携により国際的な活動に必要な都市機能の整備を目指しているが、日本橋川を越えた日本橋室町エリアで進められているライフサイエンス拠点との連携も目指している。また、八重洲一丁目北地区の「呉服橋プロジェクト」が完成すれば、日本最多の10駅がつながる広域地下歩行者ネットワークができる。しかも、ここにはいずれ開通がなされる臨海新地下鉄の新駅も設置予定である。

八重洲地区と日本橋室町地区の連携

(内閣府地方創生推進事務局)

(4)活発化する大規模開発

このエリアでは、明治時代以降、日本橋川沿いを中心に近代産業が発展した歴史をもつが、西に東京駅を持つとともに1932年(昭和7年)に地下鉄銀座線が日本橋を挟んだ南北に三越前駅と日本橋駅、その南に京橋駅が出来て南北が連なることでエリアの活動を高め、さらに、戦後の地下鉄網の拡充で1967年(昭和42年)に東西線が建設され、東京駅に連なる大手町駅と日本橋駅、そして兜町方面に繋がる茅場町駅ができる。こうした交通利便性から、様々な業界の有力企業が本社や支社を構えることになる。本社だけでも、金融業(野村ホールディングス、東海東京フィナンシャル・ホールディングス、住友生命保険)、建設・不動産業(清水建設、戸田建設、東京建物、スターツコーポレーション)、製造業(ブリヂストン、味の素、コーセー、三井化学)、食品業(明治ホールディングス)、情報通信業(サイボウズ、JBCCホールディングス)など他にも多くの本社が立地している。

日本橋
髙島屋と丸善

(筆者撮影)

日本橋エリアでは2019年に髙島屋の重要文化財の本館と新館が一体となった再開発が行われ、日本橋髙島屋S.C.として開業した。京橋エリアでは2016年に保存・再生した歴史的建築物棟の明治屋京橋ビルを含むエドグランの再開発が行われ、地下鉄京橋駅との空間的な接続も行っている。2020年開設のブリヂストンによるアーティゾン美術館はエリアの文化コンテンツである古美術から現代美術まで幅広く展示し、鑑賞者に創造性を刺激する体験を提供している。2023年に八重洲エリアにオープンした「YANMAR TOKYO」はギャラリーや複合施設、オフィスなどを持つ企業のショールームである。

現在は、日本橋川南側沿いと東京駅八重洲駅前3棟の超高層を軸に活発な開発が行われている。このエリアで過去数年に実施された大規模ビル開発プロジェクトとこれから行われる開発について詳しくみていく。

既に開発が行われたプロジェクト

A. VORT東京八重洲maxim  2024年6月
地上14階・地下1階で延床面積1,525 坪

B. 東京ミッドタウン八重洲 2023年3月グランドオープン
区域面積が約1.5haあり、「ジャパン・プレゼンテーション・フィールド」で、国内・世界から人・情報・モノ・コトを集め、新しい価値を創造し世界へ発信する拠点がコンセプトで、商業・業務施設の他に地下にバスターミナル、共創スペース、ホテル、小学校までが整備されている。
八重洲セントラルタワーは地上45階・地下4階・ペントハウス2階で延床面積86,030 坪、ホテル、小学校、バスターミナルも持つ
八重洲セントラルスクエアは地上7階・地下2階・ペントハウス1階で延床面積1,773 坪

C. 八重洲ダイビル 2025年6月
八重洲地下街に直結し、地上11階・地下3階で延床面積6,853坪

D. 東日本銀行本店立替 2025年6月
地上12階、地下1階で延床面積215坪

E. TODA BUILDING 2024年9月
戸田建設の本社建替えを機に隣接するアーティゾン美術館街区と共同して、まちに開かれた、芸術・文化拠点の形成として都市再生特別地区制度を活用して開発した。ビル内にミュージアムやギャラリーを設け、情報発信の場の創出にも取り組んでいる。地上28階・地下3階で延床面積28,680坪
他にも同街区の近辺では、第一生命による木造ハイブリッド構造の賃貸オフィスビル「第一生命京橋キノテラス」など、未来志向の個性的なオフィスの計画が進んでいる。

これから開発が行われるプロジェクト

➀ 日本橋一丁目東地区 2031年度竣工予定

➁ 日本橋一丁目中地区 2026年3月竣工
日本橋側沿いに低層のA街区、B街区があり、C街区が超高層で低層階に商業、中層階にオフィス、高層階にウォードリフ・アストリアホテルが入り、その最上階は賃貸住宅となっている。約3haの大規模開発。地下で日本橋駅に直結している。高さは284mあり、地上52階・地下5階・ペントハウス3階で延床面積111,727 坪 

③ 日本橋一丁目1・2番地区 2031年度竣工予定

④ 八重洲一丁目地区 2029年度竣工予定

⑤ TOFROM YAESU TOWER 2026年2月竣工
ウェルビーイングをコンセプトに多彩な施設が配備され、劇場、カンファレンス施設なども完備。病院と連携した医療施設もある。地下で東京駅に直結し、国内最大級のバスターミナルを持つ
地上51階・地下4階、延床面積86,030坪

⑥ TOFROM YAESU THE FRONT 2026年2月竣工

⑦ 八重洲二丁目中地区 2029年1月竣工予定

⑧ 八重洲二丁目南特定街区 2029年度竣工予定

⑨ 京橋三丁目東地区 2030年度竣工予定

エリアの大規模ビル開発

5.オフィスの状況

東京都心のオフィスの空室率、賃料はコロナ禍の3年を経てコロナ以前の状況を回復し、ほぼ以前のレベルに戻りつつある。また、エリア場所や物件によってはコロナ禍以前のものも出はじめている。

(1)オフィス空室率の推移

エリアのオフィスの状況について、OFFICE RESEARCH(ボルテックス)では規模別のデータを発表している。

カテゴリーは基準階の面積で4つに分類し、大規模:200坪以上、大型:100~200坪、中型:50~100坪、小型:20~50坪である。このエリアでの立地状況は、賃貸募集を行っているビルをベースにすると、2025年9月の時点で、大規模:17、大型:4、中型:10、小型:31となっている。

空室率でいえば、最も空室率が低いのは床面積が100~200坪の大型ビルであるのに対して、大規模ビルは供給量も多いこともあり空室率は高めになりやすい。コロナ禍の影響がまだあった2023年末には10%を超えていたこともある。しかし、都心の他のエリアと同じように、2024年に入ると状況は大幅に好転して、2025年9月には6.15%にまで下がった。大型ビルでは0.51%まで下がり、空きはないところまできた。中型ビルと小型ビルも1.20と2.30で、2%前後で推移しており需給がひっ迫する状況になっている。

注)オフィスの規模は基準階の面積で分類(基準階未登録のビルは、1フロア(同階数)あたりの最大面積で規模を算出)
(出典:オフィスリサーチ(Vortex))

(2)オフィス賃料の推移

2020年の冬に始まったコロナ禍はその後約3年にわたってオフィス環境に影響を与えた。テレワークが普及するなかでオフィス需要が下がるのではないかとの危惧が高まった。中央区では2023年の夏ごろから賃料が1割ほど下がって1万8千円を割ったが、結果からみれば、リーマンショックの時なような大幅な低下はおこらず、その後2024年春になるころにはほぼ回復したといえる状況となった。

中央区全体に対してこのエリアの賃料は高く坪3万円前後で推移しているが、規模別の賃料でみてみると、大規模ビルがおおむね坪4万円、大型ビルと中型ビルは3万円前後、小型ビルは2万5千円程度で推移してきた。ところが、2025年6月~7月を契機に変化が現れる。大規模ビルは2025年6月に39,921円だったものが7月に45,861円と跳ね上がり、そのまま推移している。中型ビルも1カ月遅れで3万5千円の壁を超えて38,199円と4千円以上の上昇となり坪4万円に近づいた。

これに対して、安定的に2万5千円前後を推移してきた小型ビルが2025年7月の26,333円から9月の23,486円へと3千円弱の下落をしたが、それまでの2年間の振れからみれば、その幅に入っていると判断できる。ところが空室率のもっとも低い大型ビルでは、6月から9月の3カ月間に28,625円から21,000円と大きな下落をし、それまでの賃料3万円前後という推移と異なり、2万円近くになり小型ビルを下回ることになった。需要の高いクラスでの賃料下落という需給関係だけでは説明できないことが起きているので、その後の推移を見守る必要がある。

(出典:オフィスリサーチ(Vortex))

オフィスの空室率と賃料をみてみると、空室率は大規模ビル以外は規模によって若干の違いはあるものの、それ以外の規模のビルでは2%ないしはそれ以下であり、堅調であることが分かる、賃料は大型ビルに下降現象があるが、大規模ビル、中型ビルで上昇の兆しがでてきている。

6.八重洲・日本橋・京橋エリアのこれから

(1)卓越した交通アクセスの優越性

八重洲・日本橋・京橋エリアは丸の内側に比べてオフィス街の整備や新たな再開発が遅れていたが、東京駅を中心とした全国鉄道網のハブ機能、長距離バス網のターミナル、地下鉄網、高速道路網など、他のエリアと比べて圧倒的な量の交通基盤が整備し続けられてきたことで、未来に向けたポテンシャルが高まっている。今後も、2031年度を目指した羽田アクセス線、2040年までの開通を目指す臨海新地下鉄線の整備などによって、羽田国際空港へのアクセス向上が期待されている。

八重洲口前のビル群
東京ミッドタウン八重洲(手前)と
TOFROM YAESU TOWER

(筆者撮影)

交通基盤がもたらしたヒト・モノ・カネの流通は、企業集積による経済効果をもたらし、丸の内側のみならず、八重洲・日本橋・京橋エリアを国内有数の都市機能の集積拠点へと変貌させてきた。この企業集積は他の地区の追随を許さない圧倒的な規模であり、優れた人材の数や集合知の量は、他地区では得られない貴重なイノベーションの源泉となりつつある。

日本の鉄道網のハブである東京駅に面し、長距離バスの利用も含め国内随一のアクセス性を有するエリアであり、日本国内の各地方と接続する「国内ハブ機能」と、都営浅草線により成田と羽田空港と直結する「国際ハブ機能」も持つ立地となっている。

日本の拠点としてのエリアの存在

これから、東京駅八重洲駅前に建設される3棟の超高層のうちの2つ目にあたるTOFROM(トフロム) YAESU」が2026年2月に竣工予定であるが、東京駅に地下で直結し、オフィス、医療施設、劇場・カンファレンス施設、バスターミナル、商業施設、住宅などが整備される。また、日本橋川南側沿いの連続した開発のうち、同年3月にMICE施設、ビジネス支援施設、ホテルを含む「日本橋一丁目中地区」も竣工予定となっている。2028年には、エリア外であるが、東京駅日本橋口の北東の街区で日本一の高さとなる「TOKYO TORCH TOWER」の竣工が予定されている。

2031年度には羽田空港アクセス線(仮称)の開業も予定されており、東京駅から羽田空港までの所要時間が乗り換えなしで約18分となる。また2040年までに新たな臨海地下鉄が敷設される予定で、この新線の新東京駅は外堀通りのJRの八重洲口と呉服橋の交差点の間に設置される見込みで、北にそのままつくばエクスプレスにつながり、南は開発の始まった築地を経て国際展示場に向かう。そこから臨海線に接続されて羽田空港に直結されるので、国内のみならず海外へのアクセスもさらに向上する。とりわけ2040年代に開発が進むことが期待されるベイエリアに直接なアクセスが出来ることで、この新たなインフラの追加は丸の内側に対する優位的な付加条件として作用することが明らかである。

臨海新地下鉄

(都心部・臨海地域地下鉄構想 事業計画検討会)

(2)2030年代に飛躍する期待

日本の代表的ビジネスセンターである丸の内・大手町を東京駅の西側に垣間見ながら、八重洲・日本橋・京橋エリアがこれから代表的なビジネスセンターとなるとすれば、複合機能をもった多機能センターに他ならない。そのためには空間整備、豊富なコンテンツなど次世代を睨んだ街づくりが不可欠であるが、すでにいくつかの計画が実行に移されていることがこのエリアの強みである。

➀ 丸の内と異なるコンテンツでの街づくり

眼前に皇居という至宝の環境を持つ丸の内に対して、このエリアは新たな空間創造のコンテンツが必要である。現在、東京オリンピックに向けて建設された首都高速が壊した川辺景観の復活と修復事業が進められている。すでに日本橋の上に架けられた首都高の橋脚の撤去ための工事が開始され、その代替となる地下部分での道路の建設が進められている。景観の修復は橋の上だけでなく、川辺の環境創造も始まっている。川幅を含めて幅約100m、長さが1,200mにおよぶ広大な親水空間と川沿いの歩行者ネットワークを中心にして5つの再開発区域が設定され、それぞれの開発プロジェクトが動いている。この周辺一帯を指すエリアの名称が「日本橋リバーウォーク」となづけられ、それを実行するエリアマネジメントの団体も設立された。街が川に向かって再び開かれることで、人と川と街が一体となった都市空間が誕生することになり、2004年のロンドンプランで提唱された生物多様性を実現する自然との共生が可能となる空間づくりを目指している。江戸時代に栄えた日本橋一帯が環境創造で21世紀に姿を変えて東京のあらたな中心となろうとしている。

日本橋リバーウォーク

(一般社団法人日本橋リバーウォークエリアマネジメント)

➁ パワーアップする交通利便性

このエリアの最大の交通アクセスを誇るJR東京駅には、新幹線(東海道・山陽、東北・北海道、秋田、山形、上越、北陸)と、在来線(山手線、京浜東北線、中央線、東海道線、総武線快速・横須賀線、京葉線、上野東京ライン)が乗り入れており、丸の内側に東京メトロ丸ノ内線も接続している。

また、エリア内には中央通りに銀座線、永代通りに南北線、昭和通りに都営浅草線3本の地下鉄が走っている。新たに、2031年度に東海道線経由で羽田アクセス線が開通、2040年までに臨海新地下鉄が建設されて、新東京駅から臨海線経由で羽田空港につながり、北からはつくばエクスプレスが延伸されてくる。さらに多くの方面への利便性が高まることになる。

そして、もう一つ大きなトピックは、2027年に品川発着で予定されていたリニア新幹線の開通が少なくとも5年以上は遅れる見通しとなったことである。これによって何らかの機能が都心から品川エリアに移るかもしれないという懸念が払しょくされ、現時点で予定されている開発プロジェクトがそれまでにすべて完成する可能性が高まったと言える。

③ イノベーションが主導する街づくり

日本橋と八重洲エリアは江戸時代から、イノベーションの街として全国から集まる挑戦者を受け入れ、支えてきた街である。地方から参集した「イノベーター」のなかで、現代に「老舗」となったものも少なくない。三井高利が創業した呉服店「越後屋」が、明治期に近代化を経て「三越呉服店」となり、さらに明治37年(1904年)に「デパートメントストア宣言」をして日本初の百貨店となり、現在に続いている例はその象徴でもある。江戸時代の三大呉服店のもう一つである白木屋が日本橋通り二丁目に小さな店を出したのは明治維新の6年前の1862年であった。現在その姿はなく、コレド日本橋に姿を変えたが地区の中心としての役割は変わっていない。「くすりの街」としての伝統もある。新たな挑戦者を受け入れ、共に切磋琢磨して成長を重ねる矜持がこの地区にはある。日本橋リバーウォークでの取り組みも含めて、金融、ライフサイエンス、宇宙など様々な領域の挑戦者がこのエリアに集い、イノベーションの連鎖が起きる素地が他のエリアに増して高いと期待される。

おわりに

丸の内が完成された本社街であるとするならば、八重洲は次世代の都心の顔、日本橋は積層する都心、京橋は文化的スパイスを持った都心と言える。八重洲は国家レベルの玄関口であり、2030年代にはグローバル本社の集積が進んで成長が完成の域に向かうが、2040年代にはそれが国際業務中枢として定着することが期待される。日本橋は歴史と先端という新旧のコンテンツを持ったハイブリッド都心で、三井不動産という有力な主体の存在で再開発が連続して行われ、北側に日銀のある日本橋室町、東側に証券取引所のある日本橋兜町が位置して金融活動のセンターであるとともに、ヘルスケア、DX、ビジネスと研究のイノベーションが集積することで、緩やかに価値を積み上げる“長期成長型”の「働く+住む+滞在」が成立する街となる可能性が高い。そして、京橋は美術館、ギャラリー、デザイン系が核となってアート、文化、感性の拠点として規模は小さいが個性は最も強い都心の拠点として存在することが期待される。都心のなかでニッチだが代替不能な存在である。この八重洲・日本橋・京橋はそれぞれのエリアが異なった個性を持ちながら東京都心全体のパワーアップに寄与することが確実である。

著者

市川 宏雄いちかわ ひろお

明治大学名誉教授、大都市政策研究機構理事長、
一般社団法人100年企業戦略研究所アドバイザー

政府、東京都、特別区の政策委員・委員長など歴任し、東京都の政策立案には30年以上関わる。日本危機管理防災学会会長、日本テレワーク学会会長、森記念財団業務理事など要職多数。 早稲田大学建築学科卒業後、カナダ政府留学生としてウォータールー大学大学院博士(Ph.D.)。富士総合研究所主席研究員の後、1997年明治大学政治経済学部教授(都市政策)。都市計画出身ながら政治学科で都市政策の講座を担当する学際分野の実践者。2008年より世界都市総合力ランキング(GPCI)を発表。東京研究に関する第一人者としての著作は30冊以上。

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