創業の志を共有し、 社会に何を求められているかを考え続ける
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本記事では、2020年9月15日開催のシンポジウム「THE EXPO 百年の計」に登壇いただいた、経営者・経営学者の方のお話しをさらに深堀りします。
今回は、石坂産業株式会社 代表取締役 石坂 典子氏にうかがいます。
「なぜ会社を興したか」が100年企業のベースとなる
設立から50年を超える産業廃棄物処理業の石坂産業。社会の“嫌われ者”だった産廃業を行いながら、里山の再生や環境教育に力を入れ、資源循環型企業へと生まれ変わろうとしている。30年後、日本の廃棄物の総排出量が現在の2倍以上になるといわれる中、産廃業は依然として地域住民からノーを突きつけられることが多い。未来を描きにくい産廃業にありながら、どのようにして100年企業をめざすのか。これについて石坂典子社長は「なぜ会社を興したのかという創業の理念やビジョンを伝え続けること。それが最も大切です」と力強く語る。
石坂産業が産声を上げたのは1967年。先代社長である石坂社長の父、好男氏が、ダンプカー1台で始めた土砂処理業が前身だ。時代は高度経済成長期の終わり。大量生産・大量消費によって日本経済を沸かせた商品の山が、今度はゴミとなって山や海を覆い始めたころだ。「父は、まだ使えるものまで大量に捨てられ、東京湾に埋め立てられるのを目の当たりにし、大きなショックを受けたそうです。『ゴミがゴミでなくなる社会を目指したい』。その想いから開始したのが産業廃棄物の処理業だったのです」と石坂社長は話す。
地域に必要とされる道を選ぶ
そんな創業の理念とは裏腹に、2001年、石坂産業は地域から大バッシングを受ける局面に立たされる。野菜からダイオキシンが検出されたとの報道を受け、その原因は産廃工場だとされて、地域住民から撤退・廃業を求められる行政訴訟を起こされたのだ。このとき、石坂社長は初めて、資源循環型社会を作るために産廃業を興した父の真意を聞いたという。「この人、すばらしいビジョンを持っている。応援したい!と心から思いました」。
当時、石坂産業のいち社員だった30代の石坂社長は、父に「私を社長にしてほしい」と懇願。期限付きのお試し社長として、産廃業を「地域に必要とされる仕事」にするという難題に立ち向かうこととなった。
石坂社長がまず取り戻したかったのは、地域住民の理解だ。「なぜ産廃業が嫌われるのか。それは、産業系のゴミがどう処理されるか、その仕組みを知らないから。使えるものを分け、捨てるゴミを減らす価値ある仕事が産廃業なのに、それが地域の皆さんに伝わっていないと思いました」。
伝わっていないのは、自分たちが地域住民と対話し、伝える努力をしていないからだ。そう悟った、当時代表権のなかった石坂社長は地域住民のバッシングに素直に耳を傾け、廃棄物の焼却処理からの撤退を先代の父に提案し実現。代わりに、全天候型のクリーンな産廃処理プラントを建設し、難易度の高い処理事業を行う方向へと舵を切った。
規模経営の真逆を行くことで大きく差別化
難易度の高い処理事業とは、建築系の廃棄物処理のことだ。建物の解体現場や建設現場からは、木くず、コンクリート、可燃ゴミなど、多種多様なものが混ざり合った廃棄物が発生する。メーカーの工場から出る廃棄物とは違い、作り手が分からないし分別が大変。そのため、手がける産廃業者が少なく、常に需要のほうが大きかった。
「産廃業は規模の経済が働く業種です。つまり、事業を拡大して廃棄物を大量に処理する大規模経営が勝つ分野。しかし私たちは、規模を追うのではなく、業界の課題となっている廃棄物処理だけに絞り込む『技術特化』を選択しました。規模の経営をするには資本力が足りなかったし、何より、処理量をどんどん増やすような事業のやり方では、地域住民の理解を得られないと思ったからです」
もうひとつ、石坂社長が心を砕いたのは、取引先とwin-winの関係になれるかどうかだった。「私たちのような工場を持つ産廃業者は、全国に2万社弱。かたや、産廃を運ぶ運搬業者はおよそ12万社。しかもその多くが家族経営の小規模事業者です。もし規模の経営をしようとすると、当社が運送用トラックを自社で保有し、産廃を運んだほうが利益が出ます。でもそれだと、12万社ある小さな会社の仕事を奪ってしまう。そうではなく、12万社に建設系廃棄物を運搬する仕事をどんどん取ってきてもらい、それを専門的に受け入れる会社になれば、お互いに良好な関係が築けると考えました」。
あえて運搬業者の“下請け”になろう。石坂社長のこの判断は、結果的に運搬業者からの信頼を獲得することになり、建設系廃棄物に強いという自社の強みを作り出すことにもなった。
社員のためになることが地域のためになる
建設系廃棄物に特化した全天候型のプラント。これを導入したことで、社員の定着率が変わったと石坂社長は語る。「それまでの処理場は、野ざらし吹きさらしの環境でした。これを屋内に入れて全天候型にしたのは、社員の働く環境を改善したいという想いがあったからです。過酷で日雇いのような労働環境では、未来すら描けない。だから離職する。しかし、働きやすくてきれいな環境を作れば、長くいようと思うし、机の上に足をのせるような労働姿勢ではダメだよね、という意識になります。長期にわたってビジョンを追求したいという会社側の姿勢も伝わります」。
また、社員の休憩所をカフェのような空間にすることで、地域住民から「あそこを使わせてもらえないだろうか」「あんな環境で働ける社員さんがうらやましい」という声が上がり始めた。それが求人応募の増加につながり、地域の雇用を生み出すことにもなったと、石坂社長は振り返る。
里山を守ることがビジョン達成に近づく
2002年、石坂産業は国際規格の環境ISO導入に乗り出した。その一環として、地域の道路清掃ボランティアを実施。このとき、会社の周辺にある雑木林に、不法投棄で捨てられたゴミが大量にあることに気づく。「雑木林が手入れされず、うっそうとしていることが原因でした。これでは、ゴミをいくら拾っても根本解決にはならない。そう思い、雑木林の手入れをボランティアでやらせてほしいと地権者に頼み込みました」。
こうして始まったのが、いまや石坂産業の旗印となっている、里山を舞台とした環境教育事業だ。社員の手で整備された雑木林は、昔から続く里山へと復元され、自然を学ぶ社会学習の場として多くの子どもたちが訪れるようになった。「ここで子どもたちにリサイクルを学んでもらうことで、自分たちの生活とゴミ、そして自然との関係性が分かります」。
最初は子どもの環境教育にとどまっていたが、始めてから数年経ったとき、子どもたちの保護者から「私たちも里山に遊びにいきたい」という声が出てきた。そこで石坂社長は、里山の一般開放に踏み切り、「入村料」と呼ばれる利用料を払えば誰でも楽しめるようにした。「有料にしたのには理由があります。民間が里山保全をするにはお金がかかることと、ゴミを捨てるのにも費用がかかることを知ってほしかったのです。これによって、ゴミを出し続ける世の中でいいのかということを、里山に来る人が考えるきっかけになる。それが『ゴミがゴミでなくなる社会を目指す』というビジョンの実現につながると思いました」
ビジョンを共有し続ける。それが継承のキモ
ビジョンを達成するには時間がかかる。だから企業として存続し続ける必要がある。その想いを胸に、石坂社長はいま、事業のコンセプトを大きく転換させようとしている。
「廃棄物処理業は長らく、川下産業と呼ばれてきました。しかしこれからは、ゴミを出さないものづくり社会を支える『循環資源パートナー』として、川上産業と手を組みたいと考えています。私たちは、何がゴミになり、何がリサイクルできるかを見極め、それを資源に変えていく技術を持っています。この視点を川上産業であるメーカーに活かせば、ゴミとして最終廃棄しなくてすむ製品が世の中に出回ります。廃棄物は、今後ますます捨てるのにコストがかかってきます。そのコストを削減できるのですから、メーカーにもメリットがあります」
企業の成長はあとからついてくる。社会に足りないもの、求められているものは何かを考え、課題を解決する事業を生み出すほうが先だ。石坂社長はそう考えている。「さまざまな改革を行う過程で、ビジョンに共感できない社員に離脱される、という出来事も起こります。でも、社長が負けてはダメ。ビジョンを共有し続け、ともに成長できる環境を作ることが重要です」。
ゴミがゴミでなくなる社会の実現は、石坂社長の代だけでは難しいと分かっている。いつか後継にバトンタッチするときがやってくる。石坂社長は、自分の後継として選ぶのは、ビジョンの価値観を感覚的に共有できる人物と決めている。「身内かどうかは関係ありません。継ぐ覚悟がない人には継がせない。私自身は、最もアクティブに動ける30〜40代をトップにしない手はないと思っています」
お話を聞いた方
石坂 典子 氏
石坂産業株式会社 代表取締役
1972年生まれ。高校卒業後、米国の大学への短期留学などを経て、92年石坂産業に入社。99年埼玉県所沢市のダイオキシン汚染問題(後に誤報と判明)の報道を機に同社に批判が集まり、2001年廃業を求める行政訴訟が提起される。02年代表権のない「お試し社長」に就任。焼却事業から完全撤退し、難易度が高い建設系産業廃棄物のリサイクル事業に特化。地元の里山の保全、再生に尽力し、13年経済産業省「おもてなし経営企業選」選出。同年代表権を得て現職。体験型環境教育の支援事業「三富今昔村」を運営。
主著に『五感経営』(日経BP)、『どんなマイナスもプラスにできる未来教室』(PHP研究所 )。