目の前の1分1秒を大切にして懸命に取り組む

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首都圏を中心にビアテイスト発酵飲料「ホッピー」を製造販売するホッピービバレッジ株式会社。戦後間もなく誕生したホッピーは、居酒屋の定番として今も多くの人に愛されています。「ホッピーミーナ」の愛称で親しまれる3代目社長の石渡美奈氏は、一時落ち込んでいた業績をV字回復へと導いた立役者。祖父、父から経営のバトンを受け取り、2025年で創業120周年を迎えた家業に対する思いを伺いました。

「本物」へのこだわりが生み出したホッピーの味

当社が東京・赤坂で創業したのは1905(明治38)年。祖父の石渡秀がわずか10歳にして、赤坂にあった陸軍駐屯地の御用聞き商人として餅菓子屋を開いたのが始まりです。その後、需要が拡大していた清涼飲料のラムネの製造に着手。海軍を通じてラムネの伝来を聞き、陸軍から主原料が同じなのでラムネを造ってみたらどうかと勧められたそうで、それは面白そうだと独学で製法を学び、1910年に秀水舎として設立。ラムネ、サイダーの製造販売を始めました。

その後のホッピー誕生の裏には祖父の商品に対する真摯な姿勢がありました。大正時代、高級品だったビールの代用品としてノンアルコールビールが流行りました。ホップを使わず、水に泡立て剤と苦味エッセンスを混ぜた“まがい物”でしたが、安価なため大人気で祖父の元にも製造依頼がきたそうです。ところが祖父は売れるとわかっていながら頑なに断った。まがい物を扱えばお客様を裏切ることになるからです。

転機が訪れたのは大正末期のこと。当時、製造工場があった長野県はホップの産地でした。そのほとんどは大手ビール会社が独占的に買い取っていましたが、祖父は「本物のノンアルコールビールを造りたい」と、農家さんに規格外品の譲渡を相談しました。すると、「石渡さんならいいよ」と言って特別に分けてくださったのです。祖父はすぐさま研究を開始。1948年にビアテイスト清涼飲料水「ホッピー」を発売しました。

新橋や池袋の闇市を中心に売り出したホッピーは爆発的にヒットしました。実は、焼酎などの割材にする飲み方は市場のお客様が生み出してくださったもの。粗悪なアルコールばかりが流通していた戦後において、ホッピーと割れば臭みもなくおいしく安く飲めると瞬く間に広がったそうです。

祖父や父の背中を見て跡を継ぐことを意識

発売以来ずっと順風満帆だったかというと、もちろんそんなことはありません。ビールが身近になり、サワーが台頭し始めた1980年代、ホッピーの売り上げは低迷しました。しかし、祖父の跡を継いだ父・光一は、さらなる発展を遂げるための準備期間だとして、工場の設備の見直しや、醸造技術の革新に努めました。

当社は代々、目の前の1分1秒を大切にしてきました。例えば、物資が乏しかった終戦直後、独自のびんを製造する力がなかった当社は、びん商から購入したびんにホッピーを詰めて販売していました。だから、当時はびんのサイズがまちまちだったんです。また、製造ラインを増やす際には全国各地の同業者を訪ね歩き、中古の機械を譲り受けて組み立てていた。壁があってもホッピーを信じ、その時にできることに一つひとつ一所懸命に取り組んできたから今があるのだと思います。

そんな祖父や父の背中を見て育った私には、幼い頃から一人っ子の自分が跡取りなんだという意識がありました。ただ、1990年代頃まで、女性は就職しても数年で退職して家庭に入るものとされていましたから、結婚相手に跡を継いでもらうイメージでした。実際に3年ほど勤めて寿退社したのですが……まったく楽しくない。社会に自分の居場所がなくなったように感じたのです。そこで広告代理店で再び働き始めたらすごく充実して、一生仕事をしていたいと思うようになりました。

父がビールの製造免許を取得したのは1995年のことです。「ビール造りは男の浪漫。自社ビールを造りたかった先代の夢も叶えられる」と喜ぶ父。その姿を見たとき、「私の生きる道はここだ」と家業に入ろうと決意をしました。ところが父は猛反対。父の世代では女性が働くことが考えられなかったのだろうし、娘に苦労をさせたくないという親心もあったかもしれません。1年以上にわたって説得して1997年にようやく入社が許されました。

社会に先駆けたブログで“ 跡取り娘” として話題に

念願の地ビールを販売しても業績は改善せず、私の入社時に12億円あった売り上げは2001年に8億円にまで落ち込みました。ここから9年で売上高が約5倍にV字回復したことで評価をいただきますが、正直に申し上げてその要因はわかりません。私はできることに取り組んだだけで、さまざまなことが重なった結果だと思います。

1つは社員の意識改革です。入社して驚いたのが、社員が平気で「ホッピーは好きじゃない」と言うこと。前職の食品メーカーでは社員たちが自社の製品やサービスに誇りを持っていました。自社製品に関心がなければお客様に魅力を伝えることなどできませんから、私は愛社精神を育てるために社内交流などに力を入れました。

もう1つはインターネットを活用してPRに努めたこと。ちょうど普及が拡大し始めた頃で、友人から「大きなコストをかけずに世界に発信できる」と聞き、うちのような会社にぴったりだと思ってスクールに通いました。そこで先生に勧められて始めた今でいうブログ「ホッピーミーナのあととり修行日記」が注目され、焼酎ブームも重なりホッピー人気が再燃したのです。

世間の健康志向の高まりも追い風となりました。ホッピーのカロリーはビールの4分の1程度。そのうえ低糖質でプリン体はゼロというヘルシーな飲料です。ただ、プリン体は意図したものではなく、お客様からのお問い合わせを受けて分析した結果わかったこと。誕生以来77年、数え切れない山や谷を乗り越えてこられたのも、仕入れ先様、お取引先様、そして星の数ほどのお客様がホッピーを大切に育ててくださったお陰様以外の何ものでもありません。

2002年に父から「いずれ経営のバトンを渡すから、心を共にする社員を育てなさい」と言われ、翌年には取締役副社長に就任。それからは早稲田大学でMBAを取得するなどして学びを深めました。意見の相違から工場長に辞表を突きつけられたこともありましたが、志を一つにするために必要なことであったと捉えています。2006年には翌年度に向けた新卒の採用も開始。若い社員たちには未来を生きる力を身に付けてほしいと考え、それぞれの課題に日々取り組んでもらっています。

2010年の社長就任時、父には「独り立ちできるまで、10年は一緒に代表権を持っていてほしい」とお願いし、支えてもらいました。一度も私を褒めなかった父ですが、2019年の亡くなる間際に「こんなにやってくれると思わなかった」と言ってくれた。この時に初めて3代目として事業を承継できたのだと感じました。私自身は100歳まで現役で働くことが目標です。

近年は地球温暖化防止に向けた「HOPPY EARTHPROJECT」を始動。「東京ドリンク、ホッピー」を看板に、世界でホッピーを求めてくださる方々にお届けし、目の前の課題と向き合いながら次世代につないでいきたい。パンデミックや度重なる自然災害のように、今はいつ何が起こるかわからない世の中です。だからこそ目の前の1分1秒を一所懸命生きていく。それが正しければホッピーの暖簾は続いていくはずだと信じています。

お話を聞いた方

石渡 美奈 氏(いしわたり みな)

ホッピービバレッジ株式会社 代表取締役社長

立教大学を卒業後、日清製粉(現・日清製粉グループ本社)、広告代理店等を経て、1997年にホッピービバレッジ株式会社入社。2003年取締役副社長に就任。2010年より現職。早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了(MBA)、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了。著書に『社長が変われば会社は変わる!ホッピー三代目、跡取り娘の体当たり経営改革』(CCCメディアハウス)など。
https://www.hoppy-happy.com

[編集]株式会社ボルテックス コーポレートコミュニケーション部
[制作協力]株式会社東洋経済新報社

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