浅草を立て直した凄腕おかみの戦略
〜女性リーダーが活躍するまちおこし〜
目次
コロナ禍明けの観光客増加やインバウンド需要で連日にぎわう浅草。今や東京を代表する観光地ですが、かつて高度経済成長期の東京オリンピック後に人足が激減するという時代がありました。そんな中で立ち上がったのが老舗蕎麦屋のおかみ、冨永照子氏です。「浅草サンバカーニバル」やロンドンの2階建てバスの導入など、斬新なアイデアでまちおこしを牽引した冨永氏に、地域活性化の極意について伺いました。
高度経済成長期を機に衰退した浅草のまち
女性経営者や女性個人会員が中心となり、全国のまちおこしの実例やビジネスアイデアを共有する「ニッポンおかみさん会」。その代表を務める冨永照子氏は浅草生まれの4代目、老舗蕎麦屋のおかみを務める傍ら、長年、まちおこしに尽力してきました。
江戸時代から昭和初期まで東京随一の繁華街だった浅草に、なぜ地域活性が必要だったのか。その経緯について冨永氏はこう話します。
「1960年代の浅草には、映画館や演劇場などが軒を連ねる『六区』という歓楽街があって、華やかで活気のあるまちだったんです。私の嫁ぎ先の和菓子屋も朝から晩まで店を開けて、土産需要でそれなりに繁盛していました。ところが、1964年の東京オリンピック後からカラーテレビや家電が普及したことで娯楽が多様化し、テレビに押されて映画館や演劇場が次々に閉館してしまいました。人気の盛り場だった浅草が『暗い、怖い、汚い』が揃ったゴーストタウンになり、タクシーに乗ると『浅草はもうダメだね』なんて言われて、とても悔しい思いをしました」
このままでは次世代の子どもたちに示しが付かないと危機感をもった冨永氏は、1968年にニッポンおかみさん会の前身にあたる、「浅草おかみさん会」を創設します。まず手始めに雷門、浅草寺、国際劇場に観光案内所を設置。PRのために新聞社を呼ぶと、早速記事に取り上げられました。
「『おかみさん会、“旦那衆に任せておけない”と立ち上がる』なんて書いてあったものだから、旦那衆からのバッシングがすごかった。でも、江戸っ子の反骨精神で切り抜けました。女性でもこうやって行動を起こせば新聞に載るんだということがわかって、自信にもつながったと思います」
1972年に田中角栄氏の『日本列島改造論』が発表され、「新しいことはいいことだ」という風潮が世の中に波及し始めます。高度経済成長の真っ只中、浅草では三社祭の担ぎ手を探すのも苦労するほどに人足が遠のき、何か新たなまちおこしを模索していました。
ちょうどその頃、台東区商連の会長が「ロンドンで乗った2階建てバスがなかなか良かった」という話を聞いた冨永氏。「浅草も同じ下町だから上野との間にロンドンバスを走らせてみよう」とおかみさん会で盛り上がり、実現に向けて動き始めます。
一過性で終わらせないまちおこしの秘訣とは
中古のロンドンバスを購入し、勢いよく計画が走り出したと思いきや、ここで大きな壁にぶち当たります。1978年当時の道路交通法では走行する車の車高は3.8mまでという制限があり、4.3mの2階建てバスは走行不可能。役所へ掛け合いに行くものの、埒があかない。そこで、台東区の旦那衆とおかみさん会の代表メンバーが立ち上がり、運輸大臣に直談判しました。そうしたところ、超法規的措置ということで、特別に許可が出たのです。
おかみさん会の熱意としなやかな交渉力で難題を突破し、安心したのも束の間。今度はスポンサー探しが難航します。三社祭のような歴史ある行事ならまだしも、目新しいイベントにお金を出す人はなかなか見つかりません。
「某ビール会社の商品を私と弟の店で取り扱う代わりに、広告費を出してもらうことになりました。その時にはじめて、タイアップという手法があることを学んだんです。後で聞いた話によると、ちょうど予算が余っていてタイミングが良かったのだそう。商売は“商い(あきない)”といいますが、” 飽きない”でやっていれば必ず報われるんだと思いましたね」
結果、2階建てバスは大ヒット。次に続けと企画したのが「浅草サンバカーニバル」です。
「当初は阿波踊りの予定だったけれど、喜劇役者の伴淳三郎さんが『そんなの古いからリオのカーニバルをやろうよ』とアイデアをくれました。それで早速、台東区長に提案し、開催が決定しました」
1981年8月に開催された第1回浅草サンバカーニバルは、北海道から九州まで、全国からたくさんの見物客が集まり、雷門前のステージには人が詰めかけました。ところが、将棋倒しになり危ないと警察から中止の命令が入りました。しかし、そこでもあきらめないのがおかみさん会。警察にお願いしに行ったところ、人が1カ所 に立ち止まらなければいいということで、翌年からはパレード形式に変更して遂行されました。
まちおこしは一過性では意味がありません。ただし、持続させるのはなかなか難しいもの。そんな中で、浅草サンバカーニバルは現在まで43年も続く伝統行事になっています。
「長く続けるポイントは、“当たる”イベントをやること。“当たる”イベントに辿り着くまでは、何度もトライするしかありません。ダメ元でやるっきゃないのです。私たちも最初はたくさん失敗しましたが、いろいろやっているとだんだんコツやポイントがわかってくるようになりました」
義理人情と心意気が人の心を動かす
まちおこしに人を巻き込むためには、好奇心を掻き立てる何かが必要。時には変わり種イベントのようなイノベーションも求められます。
「清く正しく美しいだけじゃ面白くないでしょ。ただ、新しいことを始める時は必ず壁が立ちはだかる。そんな時、壁のどこに穴を開けるか、どう突破するかを考えることが大切です。経営も同じ。老舗だからといって、いつまでも頑なに同じことを続けていてはだめ。私の場合、嫁ぎ先の和菓子屋が洋菓子の流行に押されて蕎麦屋に商売替えをしましたが、昔から仲見世は商売を変えることは当たり前なんです。孫の代になった時、人手不足解消のためにも、新しい世代の自由な発想でバトンをつなげてほしいと思います」
数々のアイデアと推進力でまちおこしを牽引してきた冨永氏。その力の源は「浅草をなんとかしたい」という地元愛にありました。
「散々失敗して恥もかいたし、周りに叩かれたこともありました。それでも、何とかして見返すぞという気持ちで立ち向かってきた。そうして頑丈な精神力が付いたんです」
日本のジェンダーギャップ指数は、2023年の時点で146カ国中125位。まだまだ男性社会の日本ですが、女性リーダーへの期待も高まりつつあります。
「自らリスクを背負って引っ張っていけるかどうかがリーダーの条件です。ただしその土台に“感謝”がないと一気にぐらついて、私利私欲に流されてしまう。そしてニッポンおかみさん会のモットーである『勇気、やる気、元気』も重要です」
人のために動くという義理人情がベースにある下町の商売と同様、まちおこしにおいても「人を大切にすることが不可欠」だと冨永氏は言います。
「私の場合、良き相談相手に恵まれていたと思います。それも、一人ではなくて相談の内容によってそれぞれ違う優秀なブレーンがいたことが大きかったと思います。商売も人間も同じで、損益分岐点がある。努力を続けていると、ある時、大事な人たちが自然と集まってくるようになるんです」
そのつながりは普段の人付き合いの賜物。困っている人を放っておけない江戸っ子精神で、いつでも助ける側に回っていると、いつのまにか人に助けられているし、自分よりも上の立場の人に助けられる場面が増えるのだそうです。
先の読めない社会情勢の中で、目まぐるしく変容する浅草のまち。しかし臆することなくそうした変化に対応し、人を大切にしてきた冨永氏のあり方は、これからの時代にわたしたちが未来を切り拓く、大きなヒントになりそうです。
お話を聞いた方
冨永 照子 氏(とみなが てるこ)
ニッポンおかみさん会 会長
1937年東京都浅草生まれの浅草育ち。浅草仲見世老舗四代目。現在は老舗手打ちそば『十和田』のおかみを務める。「浅草サンバカーニバル」や「浅草ニューオリンズジャズフェスティバル」などの仕掛け人で、50年以上にわたり浅草のまちづくりに関する活動を続けている。一般社団法人「ニッポンおかみさん会」会長、協同組合「浅草おかみさん会」理事長。著書に『おかみさんの経済学――女のアイデアが不景気をチャンスに変える!』(角川書店)、『おかみの凄知恵―生きづらい世の中を駆けるヒント』(TAC出版)がある。
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