自社の強みを再定義し続ける
ソーシャル・レジリエンス企業
目次
株式会社増岡組は、1908(明治41)年に広島県呉市で創業した建設会社です。第二次大戦終戦後には、いち早く東京の復興に立ち上がり、東京駅のランドマークとなる鉃鋼ビルディング(以下、鉃鋼ビル)を建設。2015(平成27)年には再開発を完了し、新しい時代の大型複合ビルとして生まれ変わりました。その再開発事業をリードし、2021年に増岡組代表取締役社長に就任した増岡聡一郎氏にお話を伺いました。
戦後復興の象徴だった「鉃鋼ビル」
増岡組の前身である増岡商店は、1908(明治41)年に広島県の呉市で創業しました。当時の呉には旧日本海軍の鎮守府が置かれており、増岡商店は海軍が必要とするさまざまな物資を調達する役割を担う、いわゆる御用商人でした。日本軍が大陸に進出すると、現地で飛行場の建設などにも携わったと聞いています。
ありがたいことに116年続く増岡組の歴史の中で、一つの転機がありました。それは、1951(昭和26)年の第一鉃鋼ビル、1954(昭和29)年の第二鉃鋼ビルの竣工です。
第二次大戦が終わって建設需要は軍事から復興へと移り、1947(昭和22)年には、国鉄東京駅の裏手(八重洲側)付近を対象にした開発計画が持ち上がります。当時、東京駅における表玄関は丸の内側とされており、開発計画の話が出た八重洲側は、ほとんど整備されていませんでした。
開発計画の中心となって推進したのは、当時の大蔵大臣であった池田勇人氏、日本製鐵から分社された富士製鐵の初代社長・永野重雄氏、東京都副知事の住田正一氏です。このお三方は広島出身で、私の祖父である増岡登作とは旧知の間柄でした。この信頼関係と志を持って、増岡組も戦後復興の象徴的プロジェクトに参画することになったのです。
具体的には、日本製鐵が富士製鐵と八幡製鐵に分社された際、戦後復興協会により東京都が財政再建で払い下げた土地に、八幡製鐵の本社として鉃鋼ビルを建設することになりました。その際、コストセンターである本社機能は、経営環境によって拡大や縮小しやすいほうがよいだろうという判断があり、八幡製鐵が自社ビルとして所有することは見送られました。結果的に、八幡製鐵がキーテナントとして開発資金を直接金融で貸し付け、増岡組は新たに株式会社鉃鋼会館(現在の株式会社鉃鋼ビルディング)を創設して、同ビルを施工するだけでなく所有することとなりました。これが「鉃鋼ビル」という名称の由来です。
その後、八幡製鐵は富士製鐵と再合併して新日本製鐵となり、その関係で本社は常盤橋に移転されましたが、鉃鋼ビルにはその後も、白洲次郎がつくった東北電力、日本航空、電源開発、富国生命、同和鉱業など、戦後復興を支えた錚々たる企業の皆さまにご入居いただきました。
当初は増岡組が親会社でしたが、現在はグループ内の資本政策として、株式会社鉃鋼ビルディングが親会社、増岡組はその100%子会社という形になり、資本集約型ビジネスと労働集約型ビジネスのバランスよい経営をしています。株式の相続も少し変わっていて、一般的には分散させずに長男などに集中するケースが多いと思いますが、当グループは創業者である祖父の意向が優先され、5人の息子に5等分されています。「兄弟仲よく。ただし経営は長幼の序」というのが祖父の方針でした。
1対1で意見が対立するとなかなか大変ですが、5人もいると正面衝突にはならず、偏った意見は全体の中で補正され、良くも悪くも常識を大きく外れることはありませんでした。
長寿企業として「理念」を守るためには「形」を変える
現在の鉃鋼ビルは、2015(平成27)年に竣工しましたが、その一方で、建て替えに対して逡巡もしました。時代の変化とはいえ、戦後復興期以来のシンボル的存在だった旧ビルを本当に取り壊していいのか。一度壊してしまえば、二度と同じものをつくることはできないのです。
「それでもやらなければならない」と判断したのには、確固たる理由がありました。
街づくりの主役は、ご入居いただくテナント様や、そこで働く人々であるべきで、われわれデベロッパーはその器を提供する黒子的存在です。ということは、優先すべきは働く人たちの安全・安心・快適です。
建物というのは、経年によってさまざまな劣化や不具合が生じます。阪神・淡路大震災を機に定められた新耐震基準への対応はもとより、給排水や電気・通信設備も古いままでは制約が大きくなるばかりです。
また、東京駅周辺部がビジネスセンターとして果たすべき役割も変化していました。高度経済成長期にはオフィス専用のビルが立ち並んでいましたが、訪れる人々の目的が多様化し、それに沿って鉃鋼ビルも中身を進化・深化させていく必要がありました。
建物を残すために安全・安心という理念を犠牲にしては、企業は存続し得ません。時として、理念を守るためには再開発によって、大胆に機能更新を図らなければならないこともあると思い、決断しました。
今日、東京都の丸の内というエリアは、日本全国、そして世界を結ぶハブになっています。鉃鋼ビルはいわゆる八重洲エリアに位置しながらも、住所としては丸の内一丁目にあり、ハブの中心に近く、東京駅八重洲北口に隣接する好立地にあります。
人と人、街と街、そして過去から現在そして未来へと時を「つなぐ」場所。それが新しい鉃鋼ビルのコンセプトです。オフィス、サービスアパートメント、商業施設、ビジネスサポート施設、リムジンバスターミナルなど、多様なニーズに応える設備を備えています。鉃鋼ビルは、東京駅の新しいランドマークとして、多くの人々にそれぞれの目的でご利用いただいています。
変化に対応できる「しなやかな」企業を目指す
増岡グループに入社後、私は主に不動産開発を担当してきましたが、2021年12月に増岡組の代表取締役社長に就任しました。
建設業とは、建設工事を通して安全・安心・快適な暮らしを実現し、社会基盤のレジリエンス向上に貢献する事業です。就任に際して、私は「ソーシャル・レジリエンス実現企業」というキーワードを打ち出しました。
「レジリエンス」とは、「適応力」「柔軟性」「回復力」を意味します。今の社会には、ハード、ソフトの両面で、「しなやかさ」や「速やかに立ち直る力」が求められます。建設という仕事を通して、社会のレジリエンス向上に寄与できるのは大きな喜びです。
それを実現するためには、われわれの組織自体がレジリエンスを持っていなければなりません。
外部環境は変化の速度を増しています。そうした中では、つねに半歩先を見据えた意識や思考を養う必要があります。そこで、私が社長に就任してから、これまでの社内の情報の流れを「タテ」のみならず、「ヨコ」にも流れるように、さまざまな組織改革・意識改革を実施してきました。
増岡組の「組」とは、仲間、チームのことです。仕事は誰か一人の力で為せるわけではありません。仲間と共に、助け合い知恵を出し合って問題を解決していくことが、仕事の本来の姿です。広島本店では、部門別に仕切られていた職場の壁を取り払い、フロアをすべて一つの大部屋にしました。こうすることで、担当者以外でもお客様の情報や工事の進捗状況を知ることになり、問い合わせ等にもスムーズに対応できます。また、コストダウンの方法やヒヤリ・ハットの情報を共有しやすくなりました。
さらにいえば、社内だけでなく、協力会社やお客様も含めてチームだという意識に育てていきたいと考えています。
また、当社では、それまで使われていた「粗利率」という言葉をやめて、「付加価値率」に改めました。自分たちの利益を追うのではなく、お客様にとっての価値を追求するという意味合いを込めるためです。
例えば、照明一つでも色をどうするかによって、その空間のイメージが変わります。コスト的に変わらなければどちらでもいいという考えではなく、お客様が求めるものを把握して最適な提案をしていくという姿勢が大事です。
増岡組は、創業以来数々の事業に携わってきました。近年は、豊富な現場経験をベースに、進化し続けるテクノロジーと最新の工法を駆使した建設を行っています。一方、創業の地広島では、伝統的手法で世界文化遺産の厳島神社の保全・修復工事も担当しています。
「万物は流転する」——企業が長く持続するためには、変化に対応すること、さらには時代の半歩先を歩み変化を先取りし、時にはイノベーションを起こす、すなわち変化をつくることが必要です。従来の強みが、この先も強みであり続けるかどうかはわかりません。自分たちの強みをつねに再定義していかなければならない時代を迎えています。
これまでの「強み」に安住せず、増岡組はつねに自らの再定義を続け、どんな変化にもしなやかに対応する「レジリエンス企業」を目指していきます。
(お話を聞いた方)
増岡 聡一郎 氏(ますおか そういちろう)
株式会社増岡組 代表取締役社長
株式会社鉃鋼ビルディング 代表取締役副社長
増岡組社長。1962年10月22日生まれ。東京都出身。慶應義塾大学経済学部を卒業後、85年に三菱地所に入社。93年に増岡グループに入り、96年から増岡組の取締役。親会社の鉃鋼ビルディングは98年に取締役、2021年12月に代表取締役副社長に就任。(公財)社会貢献支援財団評議会議長・(公財)東京交響楽団理事。休日はゴルフやテニスを楽しむ。
[編集] 一般社団法人100年企業戦略研究所
[企画・制作協力]東洋経済新報社ブランドスタジオ