不確実な時代を勝ち抜く日本冶金工業のレジリエンス
~創業から100年続く「やってみよう」精神が導く未来投資~

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目次

1925年、消火器の製造販売会社として産声を上げた日本冶金工業株式会社は、火工品(火薬や爆薬を目的に合わせて成型・加工した製品)事業、ステンレス鋼製造、高機能材などへと大胆に事業を転換しながら、不況による経営危機や中国メーカーの台頭を乗り越え、長きにわたり日本の素材産業を支えてきました。世界と未来を見据えて挑戦を続ける同社の歩みとこれからについて、代表取締役社長の浦田成己氏に伺います。

消火器からステンレス鋼へ――現在に続く事業の始まり

1925年創業の日本冶金工業株式会社。ステンレス鋼や高機能材といった素材を商材に、原材料製錬から製造、加工までを自社で行い、さまざまな産業を支えている企業です。

同社のルーツは「消火器」にあります。1923年の関東大震災によって初期消火の重要性が高まる中、特許技術を用いた独創的なピストル型消火器の販売を開始しました。やがて火薬に関する高度な技術が軍部の注目を集め、火薬類の販売へと軸足を移すこととなります。

その後、合金類の国産化という社会的ニーズに着目し、1934年には神奈川県川崎市に作業所を建設するとともに、京都府・大江山連峰でニッケル鉱床を発見します。そして1935年、川崎の合金工場でステンレス鋼の初出鋼を実現。金属を精錬し加工する「冶金」が中核事業となっていきます。

戦後、1950年には、それまでの誘導炉による少量生産にかわる、酸素製鋼法でのステンレス鋼製造に国内で初めて成功し、大量生産とコスト低減を実現。1960年には今もなお使われるブランド名称「NAS」を商標登録しました。

「特色がなければ生きていけない」経営危機と高機能材への転換

高度経済成長期に入ると、設備投資を加速させます。1962年には、ステンレス専業メーカー初となる30トンの大型電気炉を導入。1966年には世界に3台しかなかったプラネタリーミル(特殊な熱間圧延機:金属を高温で加熱し、ローラーで圧力をかけて、薄く長く引き延ばす機械)を稼働し、ステンレス鋼の一貫大量生産体制を構築しました。これにより海外輸出も拡大し、一時は日本のステンレス鋼輸出総量の24%を占めるまでに成長を遂げます。さらに、1968年には60トン電気炉を導入し、増大する需要に応えました。

しかし1970年代に入ると、ニクソンショックと第一次石油危機の影響を受けて業績が悪化。その後も1990年代初めのバブル崩壊、また海外メーカーの急速な台頭といった逆風の中、同社は経営の立て直しに奮闘します。

経済や市場の大きな変化とその影響は、同社のみならずステンレスメーカー全体に及び、各社は生き残りをかけてそれぞれ得意分野に特化する戦略を推し進めることとなります。その中で同社が選んだのが、ニッケル系合金でした。素材メーカーとして培ってきた技術とノウハウを生かしてより高付加価値な製品を提供するため、従来のステンレス鋼に次ぐ柱として「高機能材」と呼ばれる製品群を開発。原則ニッケルを20%以上含有する鋼や合金で、一般的なステンレス鋼と比べて耐食性や耐熱性に優れた素材です。当時について、浦田氏はこう話します。

「中国メーカーの進出は前からわかっていたことでしたから、従来のステンレス鋼以外に特色あるものを造らなければ生き残っていけないという強い危機感がありました。実際にその時が来るのに備え、高機能材の開発を地道に続けていました」

新たな事業を創出するのと同時に、同社の大きな強みとして確立したのが、日本で唯一の原材料の製錬から最終製品のステンレスや高機能材までを一貫して生産する体制です(同社調べ)。世界的に見れば、高機能材は専用の特殊な設備で造るのが一般的ですが、同社は従来の製造ラインで製鋼から最終製品まで一貫して製造することに成功したのです。これによりコスト削減と納期短縮を実現し、高い競争優位性を実現しました。

そして中期経営計画の見直しと再策定を行う中で、1998年、事業の主軸を従来のステンレス鋼から高機能材へと移すことを決めます。

わらにもすがる思いで挑んだ海外市場

高機能材の事業を成長させるにあたり、当初は主な用途にブラウン管カラーテレビを想定し、国内市場向けに提供していました。当時の国内市場では、ブラウン管カラーテレビは需要量が多く、高機能材販売量の大半を占めていました。ところが2000年代初頭の薄型テレビの登場により、ブラウン管カラーテレビは瞬く間に姿を消していきます。

「走り出したはいいものの、あっという間に最大の担い手がいなくなってしまったのです。そこで、勝算も見通せない中、わらにもすがる思いで海外市場に挑戦することにしたのです。従来のステンレス鋼の業界において海外輸出というと、国内で売れない時期に海外へ売り出す、需給の調整という位置づけが一般的でした。そのため、海外市場に本格的に進出するためには、会社にとっても社員にとっても思い切った変化が求められました」

当時、海外の高機能材市場は欧米メーカーによってそのほとんどが占められていました。ただ、アジアの生活水準の向上や、アジアで製造したものを欧米へ輸出できる体制ができつつある中で、新たな市場ニーズが芽生え始めており、同社は、海外輸出に向けての挑戦をスタートさせました。

それを先導した一人が浦田氏でした。当時、浦田氏は企画部門で中期経営計画の再策定に携わった後、古巣の輸出営業部門へ戻り、今度は高機能材の輸出営業戦略の推進の一翼を担うこととなります。

「市場もニーズもほぼゼロからのスタートで、私たちも顧客側も初めてのことだらけでした。材料の特性や、どこでこれを使うか、どう役に立つのかなどを一つひとつ知ってもらいながら開拓していきました。手探り状態だったので、顧客を増やした分だけクレームやトラブルも多かったと思います。

発生したクレームを踏まえ、品質を強みとして戦える体制を築くため、お客様の声を丁寧に集め、改善に活かすことが何よりも重要でした。ニーズに対して製造サイドがものすごいスピードでキャッチアップし、トライアンドエラーを何度も繰り返しながら市場開拓を進めることができました」

こうして同社はアジア市場の中でも評価されるようになり、結果的に数量ベース70倍程度まで輸出量を拡大。アジアを中心に海外市場を獲得していきました。

100周年の節目に社長就任。「流れを止めない」という使命

その後も高機能材の生産・販売体制を磨き続け、日本のみならず世界でその製品が活躍している日本冶金工業は、2025年に創業100年を迎えました。その直前、2024年に浦田氏が社長に就任しました。当時の思いについて、こう振り返ります。

「100周年という節目は、前社長の体制のまま迎えると思っていましたし、自分が社長になるなんて想像もしていませんでした。ただ、高機能材へ舵を切る際の戦略策定から、市場開拓や販売まで事業全体に携わってきた立場だったので、『この流れを止めるな』という使命をいただいたのだと思いました」

「素材で未来をこえていく」というタグラインを掲げ、人々や社会の期待や想像を超えていくイノベーティブな素材メーカーを目指す同社。浦田氏は前社長からバトンを受け継ぎ、全社一丸でこの実現に挑んでいます。

「主原料の一つであるニッケルは、市場価格が乱高下します。原料を買って製造してから販売するまでのリードタイムのリスクを背負わなければならず、会社の業績も製品価格も常に変動の可能性があります。しかし、だからといって安定感のない経営をするわけにはいきません。リスクヘッジに知恵を絞ることが、私のテーマの一つです。ただ、それは私一人では到底実現できないので、社員一丸となって取り組む組織づくりをすることを大切にしています」

変化と常に向き合ってきた同社が今、新たな成長の芽として注目するのが水素社会に向けた素材供給です。水素を製造する水電解装置の強アルカリ性環境下において、電極材には純ニッケルが使われています。加えて、高ニッケル耐熱合金は太陽光発電の分野においても活用されていることから、グリーンエネルギーによる水素製造にも寄与します。水素社会を実現するサプライチェーン全体を支える存在になる――同社はそのような未来を見据え、2026年春には、新たに川崎製造所内に建設した水素環境下での材料評価試験場の運用開始を予定しています。

100年続く精神と、見据える新たな未来

同社は2023年度に、2025年度を最終年度とする中期経営計画を策定しました。3年間を振り返りながら、今後の展望について浦田氏はこう話します。

「この中計を策定した頃とは社会も世界情勢も大きく変化し、想定と異なる部分もありました。ですから、次の中計の策定にあたっては『変化』を前提とし、ものづくりができる体制と強い組織を作り上げ、稼ぐ力を強化するとともに、未来につながる開発投資を実行していきたいと考えています。

また、設備投資も含めてこれまでにまいてきた種からの成果物を刈り取りながら、AI技術の進歩やDX(デジタルトランスフォーメーション)の加速に伴う新たな需要に応えるための研究開発と、それを可能にする製造プロセスの開発も進めていきます」

消火器から高機能材へ。そして、経営危機を乗り越えて日本から海外へ。同社の変遷と未来には「変化」が大きなキーワードとなっています。その中でも、100年間変わらず受け継がれてきたものとは何なのでしょうか。

「製品こそさまざまに変わってきて今に至りますが、チャレンジングなDNAは残り続けていると思います。当社は、とくに冶金事業に乗り出してからは、製品、製造設備、技術とあらゆる面で大きな挑戦の連続でした。世界初・業界初を実現してきたケースも多く、既存事例を参考にできない中でトライアンドエラーを続け、奇抜なアイデアも取り入れながら独自性を作り上げてきました。近年も、新しく導入する設備は一般的なものではなく、最新かつ当社ならではのアイデアを盛り込んでいます。そういう『やってみよう』と挑戦する精神こそ、創業から続いてきているものではないかと思います。それは私自身の中にも根付いており、お客様がいるなら世界中どこでも挑戦していかなければという強い気持ちを抱いています」

勝算が見通せなくても誰も実現していなくとも挑戦する。その精神こそが、日本冶金工業を支え続けてきた原動力であり、他社の追随を許さない開発力と技術力につながっています。

お話を聞いた方

浦田 成己 氏(うらた しげみ)

本冶金工業株式会社 代表取締役社長

1960年、福岡県生まれ。1984年に千葉大学人文学部法経学科を卒業後、日本冶金工業株式会社に入社。情報システム部門からキャリアをスタートし、営業、経営企画、海外駐在など幅広い実務経験を経て、2024年6月より代表取締役社長に就任。

[編集]一般社団法人100年企業戦略研究所
[企画・制作協力]東洋経済新報社ブランドスタジオ

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