元国税調査官作家に聞く
戦国時代に学ぶ、経済政策と日本再生への道

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目次

税金や経済に関する著作の多い大村大次郎氏は、日本や世界の歴史から見るお金の流れと、時の権力者がどうお金を差配していったかも深く研究しています。日本の歴史上、世の中が大きく動いた戦国時代に、武将たちはどのような経済政策をとっていたのでしょうか。大村氏に作家の視点から伺いました。

お話を聞いた方

大村 大次郎 氏

作家

大阪府出身。元国税調査官。国税局で10年間、主に法人税担当調査官として勤務し、退職後、経営コンサルタント、フリーライターとなる。執筆、ラジオ出演、フジテレビ系列「マルサ!!」の監修など幅広く活躍中。『お金の流れで見る戦国時代』(PHP研究所)『お金の流れで読む日本の歴史』(KADOKAWA)ほか著書多数。

信長・秀吉・家康の
経済センスの差とは何か

歴史に学ぶ点は数多くあります。たとえば、戦国武将のリーダーとしての器、才覚、戦略・戦術、権謀術数、人心掌握術などを読み取り、今の自分の仕事に活かしている人もいるでしょう。

ただ、戦国武将として領民の心を掴むためには、それだけでは十分ではありません。リーダーとしての器なども大事ですが、一国一城の主であり続けるためには、領民たちが食べていけるように経済力をつける必要があります。

世の中の歴史の裏側には、常に「経済」や「お金」の動きがあり、それによって歴史が大きく変わっていきます。時代が現代になったとしても、経済やお金が時代を動かしている事実に、変わりはありません。だからこそ、戦国武将は経済的センスのある、なしによって、天下取りの有利、不利が大きく分かれたのです。

戦国武将のうち、天下統一まであと一歩のところまで来ておきながら、明智光秀に攻められて非業の死を遂げた織田信長。その後を継いで天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。豊臣家を滅ぼして、265年にも及ぶ盤石な政権を築いた徳川家康。何かにつけて比較されがちな戦国三英傑の経済センスは、当然のことですが、それぞれ大きく異なります。

日本有数の商業地帯に生まれ
経済に明るかった信長

戦国時代というと、恐らく多くの人は「下剋上」といって、位の低い者が知恵と腕力を駆使して、上位にある者を政治的にも、あるいは軍事的にも打倒して、自らが上位に就くというイメージが思い浮かぶでしょう。

しかし、何も持たない裸一貫から天下人になった人物は、豊臣秀吉をおいてほかには、ほとんど思い浮かびません。

織田信長は尾張の勝幡城主、織田信秀の嫡男として生まれました。織田家は、現在の愛知県津島市を支配していましたが、当時、その地は物流の一大拠点であり、かつ尾張の国全体が、陶器の生産で栄えた、日本でも有数の商工業地帯だったのです。

つまり織田信長はお金持ちの子だったというわけです。そして信長は、その資力を存分に活用し、大半の大名でも持ち得なかった常備軍を組織して桶狭間の戦いに勝利を収め、尾張の国を平定しました。その後も、鉄砲隊を組織して武田の騎馬軍団との戦いに勝利を収めましたが、この戦いで活躍した鉄砲は、織田家の豊かな資力と、それを海外から入手できるルートを持っていたからこそ実現できたのです。

信長の経済センスの良さは、当時、日本有数の商業地帯で生まれ、育ったことと無縁ではないのかもしれません。恐らく幼少の頃から商人との付き合いがあり、経済に関するアンテナが、他の大名よりも格段に高かったのではないでしょうか。そして、その経済センスは、信長が全国に勢力の版図を広げていくなかで、存分に発揮されます。

具体的には税金のシステムを簡略化して中間搾取を極力減らし、農民の負担を大幅に減らしたり、楽市楽座を広めて日本の商業を大きく発展させたりしました。さらに関所を廃止することによって、物流革命も引き起こしています。

その上、不動産と町の開発もしています。安土城は高さ30mと当時としては驚異的な高層建築です。外観は極彩色に塗られ、座敷は金の装飾の造りで人々を驚かせたばかりか、夜にライトアップをしたこともあります。左義長という行事を大々的に開催したほか、さらには城内を一般庶民にも公開し、信長みずから入り口で出迎え、100文の入場料を徴収しています。安土城はさながらテーマパークのようでした。宣教師ルイス・フロイスの報告書によると、安土の市(繁華街)の距離は、5.6kmもあったそうです。現代のパリのシャンゼリゼ通りが3kmほどですから、いかに栄えていたかがわかります。

こうした信長の経済改革で最も得をしたのは庶民でした。歴史作品では冷酷無比な魔王のように描かれる信長ですが、庶民にとっては自分たちの生活を良くしてくれるヒーローだったのかもしれません。

秀吉が朝鮮に出兵せざるを
得なかった理由

本能寺に斃れた信長の後を引き継いだ豊臣秀吉が採った政策は、基本的に信長が考えたことを踏襲しただけです。大阪城の築城もそうですし、大陸進出も信長の野望でした。

ただ、信長だったら本気で朝鮮に出兵しようとしたのかどうか、そこは何とも言えませんが、秀吉には朝鮮半島に出兵せざるを得ない、経済的事情があったと考えられます。

秀吉はもともと財政基盤が脆弱でした。しかも、秀吉自身が下の身分からのし上がった人物なので、無条件で秀吉に付き従う家臣がいなかったのです。確かに家臣的な人はいたものの、その人たちは皆、秀吉が褒美を渡すことで従ってきた者ばかりでした。そのため、事あるごとに褒美を渡した結果、秀吉の財政基盤がどんどん弱体化していったのです。

そして、いよいよ財政事情が逼迫したところで、秀吉は朝鮮出兵を決断しました。すでに日本国内には家臣への褒美に渡せる土地が無くなったため、新たな領土を海外に求めたのです。

朝鮮出兵は、その途中で秀吉が病に(たお)れ、日本軍の撤退で終結しました。豊臣家の権威も失墜し、関ケ原の戦い、大阪冬の陣・夏の陣を経て、天下は徳川家康によって平定されました。

優れた経済システムを
構築した家康

経済と歴史の関りを探っていくと、そこに一定の法則があることに気付きます。これは古今東西、どの歴史を紐解いても同じです。

何かというと、特定の人しか潤わない社会は長続きしない、ということです。突出した利権を持たせない政策を実行した人物として、長期政権の礎を築いた家康の功績を見てみましょう。

徳川幕府による江戸時代は、1603年から1868年まで、265年間という長きにわたって続きました。これは当初、家康が構築した経済システムが、よくできていたからです。

江戸時代、さまざまな豪商が現れましたが、徳川幕府は突出して大きく儲けている商人に対しては、大きな利権を持たせないような配慮を行いました。また当時の主要産業だった農家に関しても、農地の売買を原則として禁止し、農地を担保にして借金をした場合でも、元本さえ返せば農地を戻すという制度をつくるなど、極力、農地の集散を防ぎました。その結果、江戸時代の日本は、世界でも珍しいほど、土地の集積が起きず、世界各地で見られた「大地主と農奴」というような構図がありませんでした。

現代に照らして考えると、日本が戦後の焼け野原から立ち上がり、高度経済成長を成し遂げた時代、日本は「総中流化社会」などと、いささか自虐的に言われた面はありましたが、この中産階級の厚みの大きさこそが、戦後、日本経済の大きな発展につながったとも考えられます。ここは少し研究したいところですが、平成の30年間を通して日本経済が大きく後退した要因のひとつは、社会が欧米化し、人々の経済格差が大きく広がったことと全く関係がないとは思えません。

SDGsの理念は「誰一人取り残さない」です。理想かもしれませんが、誰にとっても、どの企業にとってもWin-Winになれるような社会を創るには、一部の組織、あるいは人に集中している利権を崩す必要がありますし、またそれができなければ、日本は将来、じり貧の一途をたどっていくことになるのではないかと懸念します。江戸時代「農民は生かさず殺さず」とはいわれたものの、社会全体の視点から持続可能性を重視していた家康の経済システムに着目するのも、興味深い視点だと思います。

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