アナウンサーを辞め家業へ。大御所タレントから受け取った「変えるなよ」のエール~日本用品佐藤義朗代表インタビュー【後編】

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日本テレビのアナウンサーとして「シューイチ」「ZIP!」などに出演し、6度のオリンピックの現地取材・実況にも携わった佐藤義朗氏。2022年5月に退局し、祖父が創業したアウトドア用品の輸入販売を手掛ける日本用品株式会社(東京都)の代表取締役に就きました。
アナウンサーを辞め、家業を継ぐことに迷いはなかったのでしょうか。また、アナウンサー時代の経験は、経営の現場でどのように生かされているのでしょうか。佐藤氏に聞きました。
日本テレビに内定して「さあ、どうしよう」
アナウンサーになる——それは、私の人生でまったく想定外のことでした。
祖父が創業した「山とスキーの店ニッピン」は、物心ついたときから身近にありました。私も学生時代はスキー部の活動の傍ら、時間を見つけては神田小川町の店先に立ちゴーグルを売っていました。それくらいの距離感でした。そんな環境だったので、将来は会社を継ぐことに疑いは持たず、とはいえ「宿命」というほど重く考えてもなく、いつかはそうなるのかな、とおぼろげに思っていた、という程度でした。
だから、就職活動の際も会社を継ぐことをなんとなく念頭に置きながら、「まずは経験を積むために商社かな」と漠然と考えていました。ところが、試しに受けてみた日本テレビの採用試験がトントン拍子で進み、内定をいただいてしまったのです。本当に運がよかった、としか言いようがありません。
「さあ、どうしよう」。後にアナウンス部の同期になる人たちはその場で入社を決めていたと思うのですが、私だけいったん持ち帰らせてもらって、両親に相談しました。すると、意外なことに父が「やりたいんだったらやってみたらどうだ」と背中を押してくれた。こうして私は、まったく予想だにしなかったアナウンサーの道に進みます。
ただ、入ってからが本当に大変でした。アナウンサー志望の人には2パターンあって、初めからアナウンサーを志してアナウンススクールに通う人か、たまたま受かる「丸腰パターン」か。私は完全に後者でした。
同期の2人は前者だったので、新人研修の時点で発声も早口言葉もレベルが違う。ロングトーンといって「あー」という声を30秒続ける訓練があるのですが、2人とも無難にこなしてしまう。対して私はというと、ぜんぜん息が続かない。「体育会出身なのに心肺機能が弱いね」などと、指導係の先輩にあきれられる始末でした。滑舌もよくなかったので、しばらくは苦しい期間を過ごしました。レギュラー番組がついたのも、同期の中ではいちばん遅かったと思います。
「自分はこの世界でやっていけるのかな……」と不安は尽きませんでした。
ロンドンの開会式で嗅いだ、「本物」の匂い
そんな私に、転機が訪れます。2012年、入社4年目でロンドンオリンピックの現地取材クルーに選ばれたのです。
アナウンサーにとってオリンピックというのは、特別な存在です。局を背負っていわゆるキャスターとして現地に行くのは、ごく限られた人数。夕方のニュースでスポーツを担当していたのが幸いしたのかもしれません。結論からいうと、このオリンピックとの出会いが、私がアナウンサーという仕事に本気で向き合うきっかけとなりました。
今でも真っ先に思い浮かべるのは、実は競技のシーンではありません。開会式です。会場のロンドン・スタジアムに取材で入らせてもらい、足を踏み入れた瞬間——土の匂いがしたのです。
会場には、イギリスの歴史を創成期からたどっていく演出が施されていました。会場が一面、牧草と土で覆われていた。しかも、本物の。イミテーションで間に合わせようと思えば、できると思います。にもかかわらず、イギリスが国家の威信をかけて、本物のイギリスの歴史をスタジアムに再現した。その「本物」のすごみを、土の匂いから感じたのです。
アスリートは国を背負い、命を懸けて出場する。私たちメディアも、キャリア一番の大勝負だとの思いで世界中から集まっている。全員が本気で、「本物」を表現し、世界中に伝えていく舞台なのだ、と。これこそ、アナウンサーという仕事における自分の軸になるな、と確信した出来事でもありました。
転職の決断を先延ばしにしながら、計6度の五輪を経験
オリンピックという舞台にすっかり魅了され、アナウンサーとしての軸が定まった。とはいえ、頭の片隅には「いつかは家業を継ぐだろうな」との思いはずっとありました。その矢先の2013年9月、驚きのニュースが飛び込みます。2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催が決まったのです。
私自身もちょうど、取材でブエノスアイレスのIOC総会を訪れていました。会場の外で待機していたのですが、「TOKYO」の一言が伝わった瞬間、建物の中も外も一気に沸き返った。その歓喜の渦の真ん中で、私自身も興奮しながらも「うわぁ、東京になったな。どうしよう」と思っていました。半分、辞めるつもりでいたからです。
当時、番組で共演経験のある元オリンピアンの方に相談してみたところ「東京までやらなかったら後悔するよ」と。その言葉に背中を押され、「東京では絶対に実況を担当するぞ」と心に決めました。
その後のソチ、リオ、さらに平昌を経て、念願の東京の現地実況にも携わらせてもらいました。実は東京に行く前日に「北京も行ってくれ」と〝確約〟をもらったので、2022年の北京冬季五輪まで担当することになるのですが……。スキージャンプ・男子ノーマルヒルで小林陵侑選手が金メダルを獲得した瞬間も実況しました。
結局、退職を先延ばしにしながら、計6度のオリンピックに携わらせてもらった。こんな幸運はありません。アナウンサーとしてのキャリアの節目節目には、オリンピックがありました。
アナウンサーを辞める決断をして臨んだ、2022年正月の箱根駅伝。
私の担当は、2位集団を追う移動中継車。スタートからフィニッシュまでバイクで選手とずっと並走していく。そして大手町のゴール手前で分岐して、最後は指定の停車場所でバイクを降りる。その瞬間、「ああ、終わりか」と胸に来るものがありました。
芸能界の大御所にかけられた「変えるなよ」の一言
日本テレビを退局する際、局内の方々や、番組で共演した演者さんからは多くの言葉をかけていただきました。
「シューイチ」という日曜の番組で司会を務めている中山秀征さん。「ヒデさん」には6、7年ほどお世話になり、私が番組を離れた後も気にかけてくれていました。そのヒデさんが送別会を開いてくださり、担当していたアナウンサー数人で食事をご一緒したときのことです。
宴もたけなわになった頃。隣でグラスを傾けていたヒデさんが、ぽろっと言ったのです。
「義朗、変えるなよ」
何を「変えるなよ」なのか? ——言葉の真意は、本人からは深く聞きませんでした。ただ、今の立場になってみて「そういうことだったのかな」と思うところがあります。
当社には、40年も勤続してくれている社員がいます。社外の業務委託のスタッフも、今日までラ・スポルティバの事業をつないできてくれた。長きにわたり会社を支えてくれた人たちがいる中で、いきなり何かをドラスティックに変えることの副作用を、おそらくヒデさんは言いたかったのではないか。
「シューイチ」のような番組でも、舵を取る総合演出やプロデューサーが替わると、番組のカラーが大きく変わることがあります。出演者、制作陣、技術スタッフたちがそれぞれの持ち場で積み上げてきたチームの呼吸のようなものが、少なからず損なわれてしまう。その現場を、ヒデさんほどキャリアのある方はいくつも見てきたのでしょう。
ヒデさんは本当に気遣いの人で、演者さんやスタッフ一人ひとりに常に声をかけていた。みんなが気持ちよくやれる環境づくりを、何より大切にしていました。会社もまったく同じで、規模や売り上げよりも、社員が気持ちよく働ける環境が何よりも大事。そこを履き違えて「変えて」しまうとダメなんだな、と。あの一言の意味が、この立場になってようやくわかってきました。
長寿番組と長寿企業には通じるものがある
日テレを辞めたときにいただいた、忘れられない言葉がもう一つあります。「ZIP!」で総合演出を務めていたAさんとの会話です。番組全体の内容や方向性に責任を持つ、制作現場のトップにあたる役職の方です。そのAさんに辞める報告をした際に、「あれだけの人数のスタッフをどうやって束ねているんですか?」と尋ねてみました。すると、返ってきたのはテレビマンらしい“質問返し”でした。
「お前、『おふくろの味』って、なんでおふくろの味か知ってる?」
女性は周期的に体温が変わるから、味覚も微妙に変わる。だから同じ豆腐とワカメの味噌汁でも、毎朝少しずつ味が違う。だから飽きないんだ——Aさんはそう言うのです。
帯番組の「ZIP!」には、曜日ごとに異なる演出担当がいます。総合演出のAさんは、彼らを取りまとめる立場。その際、彼らのやりたいことをなるべく尊重する、ということでした。だから、Aさんが総合演出を担当する番組の台本は、コーナーによって「フォント」が違う。つまり、演出担当ごとに独自のカラーが出るのです。一方、総合演出が「フォント」をきれいに揃えた台本もあります。どちらが正解、という話ではありません。ただ、一ついえるのは、Aさんの手がける番組はものすごく居心地がよかった。
振り返ってみると、ヒデさんとAさんの二人が言っていたことには、根本のところが共通していました。どちらも、そこにいる人たちがつくってきたものを、簡単に自分の色で塗り替えるな、ということだったのではないか、と。
番組は、演者やスタッフがいて初めて成り立ちます。会社も同じです。私が来る前から、縁あってこの会社に入り、ここまで頑張ってきてくれた人たちがいる。長寿番組と長寿企業。通じるものがあるのだと思います。
ミッションとビジョンに込めた「本物」「伝える」の意味
先代は、びっくりするほど潔く社長のバトンを渡してくれました。アナウンサーを辞めて数カ月後には「社長」の肩書きが名刺についてしまった。逆にいうと、私は経営について手ほどきを受けたりする修業期間はほとんどありませんでした。
恥ずかしながら、「社長としてこれを成し遂げた」と胸を張って言えることはまだありません。でも、裏を返していうと、ヒデさんの言った「変えるなよ」を実践しているともいえる。焦らず、土台づくりに努めているところです。
その土台づくりの一環として、会社のミッション・ビジョン・バリューを策定しました。ミッションは「世界中の本物を見極め、伝え、つなぎ、人々の暮らしと人生をより豊かにする」。ビジョンは「本物を伝え、本物とつなぎ、本物であり続ける」。これらの「本物」や「伝える」の言葉には、アナウンサー時代の経験が色濃く反映されています。
ロンドン五輪の会場で体感した「本物」の感動。この「本物」は偶然にも、ニッピンが受け継いできたフィロソフィーでもあります。昔のカタログを見返してみると、「本物」というワードがいくつも載っている。そうであれば、私がオリンピックを通じて受けた感動を、今度は自分が誰かに返すことができる、と思っています。
一方の「伝える」。この難しさは、私も本職で取り組んでいただけに人一倍知っているつもりです。しかも、伝える手段は言葉から、プロダクトになった。難易度はさらに高まっています。
イタリアの山あいの工場で、地元の職人が一足ずつ手をかけて作ったラ・スポルティバの靴。その価値を共感するストーリーに置き換え、伝える。その語り部は、私一人ではありません。社員、スタッフ一人ひとりが語り部であり、翻訳家であり、伝道師なのです。だからこそ、まずは私が社内に向けて地道に、ぶれることなく伝えていこうと思っています。
今の仕事を仮に自分の終着点とするならば、私はずいぶん遠回りをしました。それでも、こうして改めて振り返ると、すごく意味のある十数年だったな、と思います。オリンピックの舞台で「本物」に触れ、日本中の人々に「伝える」役割を担った経験。それが、この会社で自分が担うべき役割に、まっすぐつながっている。そう確信しています。

お話を聞いた方
佐藤 義朗 氏(さとう よしあき)
日本用品株式会社
代表取締役
1985年東京都生まれ。アウトドアスポーツ用品の製造・輸入・販売を行う日本用品株式会社の創業者一家に生まれる。慶應義塾大学商学部卒業後、2008年日本テレビ放送網へ入社。アナウンサーとして情報番組「シューイチ」「ZIP!」のほか、主にスポーツ報道の現場で活躍。2012年のロンドン五輪以降、6度のオリンピック競技大会の実況アナウンサーとして、各競技の知識とリポート技術を基に貢献。2022年12月に日本用品株式会社代表取締役に就任。
[編集]一般社団法人100年企業戦略研究所
[企画・制作協力]東洋経済新報社ブランドスタジオ











