寝殿造、書院造など日本の建築様式の特徴から学ぶ日本文化

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※百計オンラインの過去記事(2016/05/28公開)より転載

日本家屋の歴史を探る

今も残る文化財級の格式ある日本家屋。古来からの特徴を有し、日本建築の結晶といえる寺院・神社、寝殿造、書院造、武家屋敷などは、海外からも大きな注目を集めています。悠久の歴史の流れの中に佇む、日本建築の歩みを振り返ってみましょう。

貴族のための上品・繊細な建築様式 〜寝殿造

寝殿造と呼ばれる建築様式が確立したのは平安時代です。当時の上流階級、つまり貴族が住んでいた屋敷の様式です。奈良時代の重厚さとは異なり、寝殿造には自然との調和を重視した「上品」かつ「繊細」といった特徴があります。

中央に「寝殿」と呼ばれる「主殿」があり、屋敷の主人はここに居住しました。「寝殿」の東西両側には「コ」の字形に「対殿」が配され、それぞれの屋敷は「西対」、「東対」と呼ばれていました。各部屋は長い廊下で囲われ、屏風やすだれで仕切られていました。主殿には儀式や舞の舞台、その前には広い庭や池がつくられ、船遊びのための「釣殿」という家屋が設置されることもありました。一つの屋敷には、20人から30人ほどの貴族が住んでいたといわれています。

平安時代に貴族が住んでいた寝殿造の最大の特徴は、「上品」かつ「繊細」なことです。この時代の寝殿造は、自然との調和を重視して建てられています。平安時代は和歌に代表される四季折々の豊かな自然を詠う風雅な文化が花開きましたが、寝殿造の屋敷内にさまざまな樹木やため池が存在するのも、そうした文化傾向の現れでしょう。つねに自然を感じる佇まいは、まさに風雅を尊んだ当時の貴族階級の美意識が産んだ産物といえます。

また、この時代の寝殿造の代表的建築物としてたびたび紹介されるのが寺院です。なかでも平安時代の寺院を語る上で欠かせないのが、世界遺産にもなっている「中尊寺金色堂」です。建物全体に金箔が貼られた華やかな造は、奥州藤原氏の権力を物語っています。

当時、多くの寺院は「浄土信仰」の影響を受けていましたが、庭園内には「極楽浄土の宮殿」をイメージした池などが造られていたのです。代表的な建物としては、岩手県の毛越寺などがあります。貴族の寝殿造は、こうした寺院の建築様式を参考にしたという説もあります。当時の貴族文化が、仏教の影響を色濃く受けていた証左ともいえるでしょう。

● 寝殿造の代表的建物
・平等院鳳凰堂
・京都御所紫辰殿
・中尊寺金色堂
・毛越寺

格式・様式、身分序列を重視した建築様式 〜書院造

書院とは「書斎」のことで、日本の室町時代から江戸時代初頭にかけて成立した住宅様式です。寝殿造が主人の寝殿を中心とした屋敷だったのに比べて、書院造は書院を建物の中心にしている点が特徴です。書院のある主室には、畳敷きの二畳程度のスペースに書見のための机、明かり採りの窓、押し板、棚、納戸等が設けられました。

寝殿造では個々の部屋は開放されていましたが、書院造は襖、障子などの間仕切りが発達し、畳を敷き詰めた「座敷」、「付書院」など、機能や役割別にさまざまな種類の部屋が生まれています。また座敷には高低差がつけられ、高い方を上段、あるいは上々段と呼び、低い室を下段と呼びました。これにより席による階級差が示され、加えて壁には淡彩や濃彩の障屏画が描かれ、上段に座る高位者の威厳の高さを示すようになったのです。

柱も寝殿造では円柱でしたが、書院造では角柱と変化しています。これら床の間、付書院、角柱、襖、障子、そして雨戸、縁側、玄関も書院造から生まれました。その意味で、書院造の各要素は、もっとも多く現代の和風住宅に受け継がれています。

鎌倉時代以降、政治や文化は徐々に武士階級によって主導されました。書院造はもともと「武家造」とも呼ばれていたように、武士にとって大切な「書院」を建物全体の主室とする住宅様式です。

当初はプライベートな居室のある建物を指すものでしたが、時代が下るにつれ、書斎から接客のための広間、さらに儀式の場へと発展しました。背景には、武士の社会的地位の向上にともない、公的空間としての重要性が高まったことが見受けられます。また一般の武士階級の間でも、身分序列の差を意識づける接客空間として活用されました。

書院造の代表的な建物としては、書院の成立や各部屋の機能分化が認められる銀閣寺東求堂などがあげられます。また時代が進むと、掛川城御殿のように床の間のある「座敷」が定型化し、これは現代にも継承されています。そして、一般庶民の家にも書院造は普及しました。とくに戦国時代後期からは商業の発達にともない、特に富商の間で武家にも勝るような立派な「書院造」が登場しました。一方平民が住む町家では、平屋建て、板葺き屋根など、書院造ながら非常に簡素なものも数多く建設されました。

● 書院造の代表的建物
・銀閣寺東求堂
・慈照寺同仁斎
・園城寺光淨院客殿
・西本願寺白書院
・掛川城御殿
・大分杵築藩家老「大原邸」
・二条城二の丸書院

茶室から発展した質素・洗練の建築様式 〜数寄屋造

数寄(すきや)とは和歌や茶の湯・生け花などの風流を楽しむこと。つまり「数寄屋」とは「好みに任せて作った家」のことで、転じて「茶室」の風を取り入れた住宅様式のことを数寄屋造というようになりました。数寄屋造が生まれたのは、安土桃山時代です。当時はまだ書院造が主流だったため、小規模 (多くは四畳半以下) の茶座敷を「数寄屋」と呼んでいました。

数寄屋造の建材や意匠は、書院造と比べると質素ながら自由、かつ洗練されています。建材は、柱や床板には竹や杉丸太、床柱や床框には紫檀などの奇木、板材には桑の一枚板が使われることが多いのです。工法は、一見素朴だが高度な丸太普請と呼ばれる丸みを残した面皮柱を使用しています。壁も白壁は採用せず、原則として土壁仕上げで、そのため左官技法も多彩に発展しました。庇は長めで、内部空間に深い静寂をもたらしています。襖や障子のデザインにも工夫が凝らされ、後年は板硝子という新たな材料も採用されました。その他、雪見障子や猫間障子、組子障子など、数寄屋造には多彩な職人の技術の粋を見ることができます。

数寄屋造建築は、書院建築が重んじた格式・様式などを極力排しているのが特徴です。虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの精神性を反映し、質素ながら洗練された意匠となっています。こうした様式はその後「わびさび」、「きれいさび」と呼ばれ、日本文化を語る上で欠かせない要素となります。

数寄屋造に用いられる建材も、当初は庶民の住宅に使われる粗末な材料や技術をこだわりなく採用しました。数寄屋造の原点ともいえる妙喜庵待庵の草庵風数寄屋(茶室)造は、荒壁に囲まれたわずか二畳の部屋。利休のめざした究極の「ワビ」「サビ」の世界が広がっています。

ただし時代が進み、とくに江戸時代以降は茶室から住宅などへ普及が進むにつれ、数寄屋造にも高価な材料、高い工法技術を用いる例も出てきます。代表的な建物として知られるのが、「桂離宮」でしょう。桂離宮は書院造の格式を外しながらも、天守、広間、床の間、違い棚、縁側や濡れ縁など、細部にわたって凝った意匠や隠れた高度技術を用い、趣深い雰囲気を醸し出しています。

現在では数寄屋造は特に高価で、高度な技術を要する高級建築の代名詞になっており、一部の豪邸を省き一般住宅に継承されることは少ないのです。ただし料亭などでは数奇屋様式を取り入れた建物を見ることができます。

● 代表的建物
・妙喜庵待庵
・桂離宮新書院
・修学院離宮
・伏見稲荷大社御茶屋(重要文化財)
・曼殊院書院
・小泉八雲旧居

現代によみがえる古えの技と暮らし

歴史が育んだ文化が重層的に積み上がっている日本では、建築様式を見ても、その時代時代のさまざまな政治的、文化的背景やその時代特有の匠の技を知ることができます。

機会があれば、ぜひ上に紹介した各様式の建築物などを実際に訪れてみてはいかがでしょうか。いまに継承される匠の技の原点を知り、当時の人々の暮らしに思いを馳せるのも、また一興でしょう。

著者

株式会社ボルテックス 100年企業戦略研究所

1社でも多くの100年企業を創出するために。
ボルテックスのシンクタンク『100年企業戦略研究所』は、長寿企業の事業継続性に関する調査・分析をはじめ、「東京」の強みやその将来性について独自の研究を続けています。

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