『時』に愛されたワインたち~③古木の物語
目次
著者
樹林ゆう子(亜樹 直)氏
実弟の樹林伸とユニットを組み、ペンネーム亜樹直(あぎ・ただし)として漫画原作を執筆。2004年から2020年まで、講談社モーニング誌上において、ワイン漫画『神の雫』を連載。独特なワイン表現で海外にも人気を博し、全世界で1200万部超をセールスした。09年、グルマン世界料理本大賞の最高位『Hall of Fame』に日本人として初受賞。 2023年より、山下智久氏の主演による仏英日の多言語ドラマシリーズ「Drops of God/神の雫」が世界各国で配信の予定。日本ではHuluにて独占配信予定。
ワインはいつの時代も『時』と深く関わりながら、その価値を高め、存在を輝かせていく酒です。今回はその時の物語のひとつ、「古木」……つまり、歳を重ねた古い葡萄樹ついてのお話をします。
葡萄の樹の寿命はおおよそ120歳くらいといわれています。ワインの原材料として育てる場合、苗から植えて3年くらいまでは、実がなってもそのまま廃棄してしまいます。幼木のうちは枝葉を伸ばすことにほとんどの養分を使ってしまうため、実の部分は未熟な味になりがちだからです。かつて、とあるワイナリーで3年目の葡萄と10年超えの葡萄を食べ比べしたことがありますが、「3歳児」の葡萄は、甘さはあるもののまったく酸味がなく、薄いジュースのようでした。
葡萄樹も20年を過ぎますと、樹勢がぐっと落ちてきて、葉や実の数が減り、まばらになってきます。そうなると葡萄の房に太陽の光が行き渡り、実にもミネラルや栄養分が集まってきます。同時に、根もだんだんと土中深くに伸びていきます。歳とともに収穫できる実の量は減りますが、地上の光と地下からの養分が集約された葡萄が採れ、それがワインの味わいに優美さと複雑さを与えてくれます。
フランスのワイン名醸地・ブルゴーニュでは、20歳未満の若木は「子ども」とみなされ、若木からつくられたワインは、それが特級畑の葡萄であっても、格付けを下げて出されます。一方、樹齢30年~40年以上の古木は、古い蔓を意味する「ヴィエイユ・ヴィーニュ」(Vieille Vignes=略してV.V.)という文字をラベルに表記することができます。
もちろん古木だから美味しいワインができるとは限りませんし、アメリカには「20歳以上の古木は収穫量が減り効率が悪い」という理由で、20年で植え替えてしまうワイナリーもあります。
でも私としては、古木のワインには若木には表現できない優美さと複雑さが、間違いなく反映されていると思います。実際、80年~100年越えの古木はフランスだけでなくスペイン、イタリア、オーストラリアなどにも存在しており、そこから作られるワインは、いずれも高い評価を受けています。
樹齢100年の超古木もあるシャプティエの畑
ブルゴーニュの有名ドメーヌ(生産者)は、古木に強いこだわりを持つ人がほとんどです。老舗生産者、ドミニク・ローランもそのひとり。ドミニクは現在、「ドメーヌ・ローラン」のブランドでブルゴーニュのさまざまな地区の葡萄畑を購入し、規模を拡大しています。そんな彼が新たに畑を買う時、もっとも重要視しているのは「50年以上の古木が植わっていること」だそうです。
「樹齢100年にも達する超古木の姿は、まるで年老いた哲学者のように見える。彼らは、テロワール(葡萄を取り巻く畑などの環境)を人間よりも深く理解している」とドミニクは語っています。
古木から採れる葡萄に凝縮感があるのは、日当たりなどの要素ももちろん大きいですが、一番重要なのは「根」だと、生産者は口を揃えていいます。50年を超える古木の生命力と滋味の源は、その根の深さと強さにあるのかもしれません。
以前、フランス・ローヌ地方のトップ生産者、ミシェル・シャプティエが来日し、東京で食事をご一緒したことがあります。彼は世界的なワイン評論家のロバート・パーカーJr.をして、「地球の輝き煌めく光のひとつ」といわしめる偉大な作り手です。
ミシェルは91年に先代から畑を受け継ぎますが、経営に口を出されたくないという理由で、相続はせず、わざわざワイナリーを「買い取った」のだそうです。そして継承直後から究極の有機農法といわれる「バイオ・ダイナミック(ビオディナミ)農法」による土壌の改良に取り組みました。
19世紀、フランスのワイン産地に普及した化学肥料は、農業の効率化を進めましたが、樹木だけでなく菌類の発育も促してしまうため、有害な菌が畑にはびこり、それ以前には存在しなかった病気が蔓延しはじめました。やがてこれを殺すために農薬が撒かれるようになり、土の中にあった有用微生物が死に絶えていきました。
葡萄にとって重要なミネラル分となるこれらの微生物が根絶やしにされると、葡萄の樹は栄養不足に陥り、化学肥料を必要とするようになります。その結果、根は土表に広がる肥料を求めて横に伸びていき、土中に潜っていかなくなるのです。
ミシェルはこの悪循環を断ち切るため有機農法を取り入れ、土中に微生物を呼び戻し、葡萄の根を地下深くまで伸ばそうとしたのです。彼はこのように断言していました。
「土壌の個性とは、畑の地下数十メートル下の鉱物質の部分にこそ存在するのです。つまり、地下深くにある土壌の栄養分や微生物こそが、ワインに複雑さやミネラル分を与えてくれる。だから根が横に広がった葡萄からは、薄っぺらな味のワインしかできません」
数十年の歳月をかけて、畑をバイオ・ダイナミックで改良し続けた結果、シャプティエの葡萄の根はどんどん地下に伸びていき、なんと「樹齢の高いものでは、地下100メートルにまで伸びている」そうです
平均樹齢65年といわれ、なかには樹齢100年の超古木も植わっているシャプティエの畑。その葡萄から作られるワインは、絹のように滑らかな喉越しと、弦楽器のように長く官能的な余韻、そして無数の微生物が蠢いているかのような複雑さが感じられます。彼のワインはパーカーポイント「100点」を50回も叩き出していますが、そのことからも古木のポテンシャルがいかに傑出しているかが窺い知れるでしょう(※注)。
※注 パーカーポイント100点50回の記録は、2019年末のデータによるものです。
400年間、無農薬栽培で育った古木のワイン
2004年11月にスタートした『神の雫』はフランスでも翻訳版が人気を博し、現地のワイナリーから頻繁にコンタクトが来るようになりました。そんななか、シャトー・ル・ピュイというワイナリーから「私たちのワインを試飲してほしい」という連絡が来ました。2008年のことです。
ル・ピュイの産地はコート・ド・フラン。大河ドルドーニュ川の右岸の北東部分に位置するボルドー最小のアペラシオンです。ほとんどのワイナリーが小規模な家族経営で、正直、私たちも深堀りしたことのない産地でした。
ル・ピュイもまた、よくある家族経営のワイナリーです。いかにも気さくな雰囲気のオーナー、モロー夫妻は、わざわざ私と弟の自宅近くのレストランまでワインを運んできて、試飲の場を設けてくれました。
モロー夫妻は、軽くシャンパーニュで乾杯したあと、私たちにいきなり2003年ヴィンテージの赤ワインを勧めてきました。実は内心、私は「なぜ2003年なのだろう?」と違和感を抱きました。
ご記憶の方もいるでしょうが、2003年の夏はフランスで記録的な猛暑となり、農作物は枯れ、エアコンのない家では死人が出ました。こういった年の葡萄は高温と渇水で過熟気味となり、多くの場合、甘くて濃く、フレッシュな酸味を欠いた重たいワインになります。要するに、優美なワインを作るのが難しい年なのです。
私は不可解に思いつつ、彼らが勧めてきた「シャトー・ル・ピュイ2003」に口をつけました。一口飲んで、驚きました。それは涼風のように透明な酸味があり、「暑さ」をまったく感じないワインだったのです。
「これが2003年ヴィンテージのボルドーなんですか?なぜあの暑い夏に、このように静かなワインができたんですか?」
思わずモロー氏に尋ねると、我が意を得たりという顔で答えてくれました。
「私たちの畑は創業以来、400年以上も農薬や化学肥料を使っていない。だから葡萄の根は養分を求めて土中深く伸びています。専門家に調査を依頼したところ、根の先端は地下70メートルに達していることがわかりました。深い地下の世界は、地上が猛暑でも冷夏でも、あまり変化がない。だから2003年も、このように優雅な味わいのワインができたのです」
改めて驚くとともに、なるほど……と得心が行きました。
シャトー・ル・ピュイは1610年創業。昔ながらのやり方で、今も馬が耕作を行っている彼らの葡萄畑は、平均樹齢およそ50年です。ル・ピュイの哲学は、人間の手をできるだけ加えず、葡萄と大地を見守り、ひたすら過ぎ行く時間に耐え、成長を待つこと。400年前からその姿勢は変わることがありません。
地下深くに根を下ろしている古木は、地上で起きているさまざまな変化に対して、強いのです。そして長い時を過ごした樹木だけが知りうる、地層深くの生命の物語を私たちに伝えてくれます。これら古木と同じように、100年の時を乗り越えてきた組織もまた、世の中の深層部まで根を下ろしているからこそ、時代の変化に屈せず、揺るぎない存在であり続けられるのかもしれません。