'大哲学者'が問い続けてきた「生きることの意味」
「あなたという存在」に意味を与える生き方は?

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目次

※本記事は「東洋経済オンライン」に2023年7月25日に掲載された記事の転載です。

現在、学校教育のみならずビジネス社会においても「教養」がブームになっている。その背景には何があるのか。そもそも「教養」とは何か。

ベストセラー『読書大全』の著者であり、「教養」に関する著述や講演も多い堀内勉氏が、教養について論じる、好評シリーズの第4回。

「生きる」という問いにどう答えるか

前回の記事「不朽の名著『夜と霧』が問う「生きることの意味」」でコペルニクス的転回の説明をしましたが、ここでもう一度『夜と霧』に議論を戻します。

フランクルはこの本の中で、こうも言っています。

「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。」

ここでフランクルが言っているのは、私たち人間は「生きる」という問いの前に立たされた存在であり、それに対してどう答えるかが私たちに課された責務なのだということです。

「人生」というのは自分の外にある何かふわふわした地に足のつかない抽象的なものではなく、つねに特定の個人とひもづけられた具体的で一回限りのものなのだということです。

私はフランクルのこの言葉から、「一期一会」という茶道の言葉を思い起こします。

これは広く知られているように、「茶会に臨む際には、そこでの出会いは二度と繰り返されることのない、一生に一度のものであると心得て、主客ともに互いに誠意を尽くす」ことを意味しています。そこでの本質は、二度と繰り返されない、一回限りの具体性ということです。

そして、生きることがわたしたちに向けてくる具体的な問いに対して実際にどう応えるのか、その小さな日々の積み重ねがその人の「人生」になっていくのです。

その人生の積み重ねこそが、ほかでもない「あなた」そのものなのです。

どのように生きるべきかを考えるのは、とても大切なことです。

でも、考えるだけでは意味がありません。あなたが具体的な一歩を踏み出さなければ、あなたの人生は駆動しないからです。

大切なのは、自分はどう生きるのかという問いであると同時に、その実践なのです。

フランクルは、「生きることの意味」について、次のように語っています。

「具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。

わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。」

実践を重視したストア派哲学

古代ギリシヤのストア派の哲学者エピクテトスは、その著書『語録』の中で、「あなたに何が起こるのかは問題ではありません。大事なのはあなたがそれにどう対応するかです」と語っています。

同様に、ストア派を代表する哲人皇帝マルクス・アウレリウスは、日記として綴った『自省録』の中で、「善い人間の在り方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ」と自らを戒めています。

ストア派というのは、古代ギリシヤ・ローマの哲学の一派で、ストイック(禁欲主義)という言葉の語源になったものです。

自らに降りかかる苦難などの運命とどのように対峙し、いかに心の平穏を得ていくかを追求した一派で、私はこのストア派の思想を、自分の生き方の参考にしています。

じつはこれに対して、「合理主義哲学の祖」と呼ばれ、哲学者であると同時に数学者でもあり、論理の確実性と明確性を追求したルネ・デカルトは、『方法序説』の中でストア派の考えを次のように真っ向から否定しています。

「わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。

これと反対に、習俗を論じた古代異教徒たち(ストア派)の書物は、いとも壮麗で豪華ではあるが、砂や泥の上に築かれたにすぎない楼閣のようなものであった。かれらは美徳をひどく高く持ち上げて、この世の何よりも尊重すべきものと見せかける。けれども美徳をどう認識するかは十分に教えないし、かれらが美徳という美しい名で呼ぶものが、無感動・傲慢・絶望・親族殺しにすぎないことが多い。」

どちらが正しいとか間違っているとかいうことを、ここで論じるつもりはありません。それぞれの立場で考えてもらえれば結構です。

ただ、私が理性に重きを置きすぎる大陸合理論になじめず、ストア派やイギリス経験論のほうにより親近感を抱く理由は、こうした両者の違いにあるのだろうと思っています。

多様性が尊重されるべき理由

このような哲学の系譜については改めて論じることとして、『夜と霧』に話を戻すと、フランクルが言うように、自分の人生は自分で生きるしかないのです。

私たちは、他人の人生を生きることもできなければ、他人に自分の人生を生きてもらうこともできません。長い時間をかけて1つひとつの人生を積み上げてきた「あなた」の代わりになる存在は、この世のどこにもいないからです。

私は人間社会において多様性が尊重されるべき根拠というものを、ここに見出しています。

一般的には、多様性が尊重されるべき根拠は、生物学的な種の生存可能性やそれとのアナロジーでの企業の競争力といった視点で論じられることが多いと思います。

これに対して、私自身はこうした人生の「一回性」「代替不可能性」にこそ、人間の多様性が尊重されるべき根拠があるのだと考えています。

第2回の記事「「教養」を習得すべき'たった1つ'の本質的理由」で紹介した加藤典洋の『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。幕末・戦後・現在』を思い出してみましょう。

これまでの議論を振り返って改めて気づくのは、加藤の言っている「どんなことが起こっても、これだけは本当だと思うこと」に向き合うことと、フランクルが言う「生きることがわたしたちからなにを期待しているか」を真剣に考えることは、じつは同じことを意味しているのではないかということです。

「1人ひとりは微力だが無力ではない」

私たち1人ひとりはとても弱い存在です。でも、私たちに何もできないわけではありません。

「1人ひとりの力は微力だが無力ではない」という言葉があります。

これは、核兵器廃絶と平和な世界の実現を求め、ヒロシマ・ナガサキの声を世界に届けるために「高校生1万人署名」活動を行っている「高校生平和大使」のスローガンです。

平和教育・地雷・小型武器・子ども兵の問題に取り組む国際協力NPO法人テラ・ルネッサンスの鬼丸昌也代表も、「我々は微力であるかもしれないが決して無力ではない」という言葉を使っています。

同様の考えは、時代を遡れば、「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一にも見られるものです。

「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させる」という合本主義を唱えた渋沢は、微力な滴が寄り集まれば勢いのある大河になると言っていました。

たとえば、第一国立銀行の株主募集布告のパンフレットで、渋沢は株式の意味を次のように説明しています。

「そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りない。しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝に溜っている水やぽたぽた垂れているシズクと変わりない。(中略)銀行を立てて上手にその流れ道を開くと蔵やふところにあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁昌するし、産物も増えるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての状態が生れ変わったようになる。」

このように、たとえ微力であったとしても、今日一日をしっかりと生きようとするその姿勢が、「あなた」という存在に意味を与えるのです。

ここでもうひとつ紹介しておきたい言葉として、「たとえ明日世界が終わるとしても、私(あなた)は今日りんごの木を植えるだろう」というものがあります。

これは、宗教改革者のマルティン・ルターの言葉だと言われていて、さまざまなところで引用されている有名なものです。

実際には、アメリカの作家チャールズ・フレデリック・オーバートンによる創作のようですが、作家の開高健も、好んでこの言葉を色紙などに書いていました。

あなたの行動が「生きている」ということ

なぜ明日世界が終わるというのに、あなたはりんごの木を植えるのでしょうか。

ここで思い出してもらいたいのは、人生の意味というのは誰かに与えられるものではないということです。

そして、頭だけで観念的に考えるものでもありません。それは、あなた自身が1つひとつの行動を通して、具体的に生み出すものなのです。つまり、今、あなたが生きている証というのは、今日のあなたの行動によってのみ得られるのであり、それこそが「生きている」ということだからなのです。

私は教養についての講演を引き受けると、その最後で聴衆に対して、「あなたにとって、『どんなことが起こっても、これだけは本当だと思うこと』とは何ですか?」と尋ねるようにしています。

実際にこの問いに対して即座には答えられる人はほとんどいません。でも、即座に答えられるかどうかは重要な問題ではありません。大切なのは、私たち1人ひとりがその問いに対して真摯に向き合うことなのです。

あなたの人生を生きるのは、あなた自身しかいないのですから。

著者

堀内 勉

一般社団法人100年企業戦略研究所 所長

多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長。 東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、Institute for Strategic Leadership(ISL)修了、東京大学 Executive Management Program(EMP)修了。日本興業銀行、ゴールドマンサックス証券、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員CFO、アクアイグニス取締役会長などを歴任。 現在、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事・アート委員会共同委員長、川村文化芸術振興財団理事、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、社会変革推進財団評議員、READYFOR財団評議員、立命館大学稲盛経営哲学研究センター「人の資本主義」研究プロジェクト・ステアリングコミッティー委員、上智大学「知のエグゼクティブサロン」プログラムコーディネーター、日本CFO協会主任研究委員 他。 主たる研究テーマはソーシャルファイナンス、企業のサステナビリティ、資本主義。趣味は料理、ワイン、アート鑑賞、工芸品収集と読書。読書のジャンルは経済から哲学・思想、歴史、科学、芸術、料理まで多岐にわたり、プロの書評家でもある。著書に、『コーポレートファイナンス実践講座』(中央経済社)、『ファイナンスの哲学』(ダイヤモンド社)、『資本主義はどこに向かうのか』(日本評論社)、『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP)
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※本記事は「東洋経済オンライン」に2023年7月25日に掲載された記事の転載です。元記事はこちら

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