「君たちはどう生きるか」に若者が共感する深い訳
吉野源三郎とジョブズが訴える「人生の主体性」

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目次

※本記事は「東洋経済オンライン」に2023年8月15日に掲載された記事の転載です。

現在、学校教育のみならずビジネス社会においても「教養」がブームになっている。その背景には何があるのか。そもそも「教養」とは何か。

ベストセラー『読書大全』の著者であり、「教養」に関する著述や講演も多い堀内勉氏が、教養と生きることの意味について論じる、好評シリーズの第6回。

今回は、これまで繰り返し語ってきた「生きる」について、戦前に出版され今日まで読み継がれている、子供向けの道徳哲学書『君たちはどう生きるか』を題材にして考えてみたいと思います。

本書は、少年少女に自由で進歩的な文化を伝えるために、作家の山本有三らが中心となって編集された子供向け教養叢書「日本少国民文庫」の最終刊として、1937年8月に出版されたものです。

この叢書は、当時、山本が長男に読ませるための良い本がなかったことから企画されたそうで、1935年から1937年にかけて全16巻が刊行されました。

編集主任を務めたのが、戦前・戦後を通じて編集者として活躍した吉野源三郎です。吉野は、戦後、岩波書店に入社して岩波新書を創刊したほか、雑誌『世界』の初代編集長も務めました。

進歩主義的・自由主義的な書

「日本少国民文庫」の「少国民」というのは、「天皇に仕える小さな皇国民」という意味ですが、言論・出版の自由が制限されていた当時の時代状況にあって、人類の進歩という共通テーマによってまとめられた、驚くほど進歩主義的・自由主義的な内容になっています。

吉野は満州事変が始まった1931年に治安維持法違反で逮捕され、1年半ほど投獄されています。

しかも1937年8月といえば日中戦争が始まった翌月ですから、軍国主義が広まり、社会全体に閉塞感が漂う中で出版された稀有な本ということができます。

本書はむしろ戦後に売れ行きを伸ばし、今年7月には岩波文庫版の発行部数が累計180万部となり、長らく1位だった『ソクラテスの弁明』を超えて岩波文庫歴代1位となりました。

また、初版から80年後の2017年に出版されたマガジンハウスの漫画版も235万部の大ベストセラーになっています。

ストーリーはまったく別ですが、今年7月に、本書をモチーフにした同名の映画を、映画監督の宮崎駿が制作・公開したことも、再び売れ行きを伸ばしている理由のひとつです。

ストーリーとしては、中学二年生の主人公・本田潤一(コペル君)が、叔父さん(おじさん)との交換ノート(おじさんのノート)による対話を通じて、社会や生きることの意味について考え、人間的に成長していくというものです。

たとえて言うなら、中高生向けに書かれた、ソクラテスの対話篇の現代版という感じでしょうか。ここで言うソクラテスとは、もちろん、おじさんのことです。

「コペル君」というあだ名は、地動説を唱えたコペルニクスから来ています。そこには、天動説のように自分中心にしか物事を考えられない人間にならないようにという、おじさんの思いが込められています。

何事も自分自身で判断すること

コペル君は、次々と難しい問題に直面する中で、おじさんとの対話を深めていきます。

例えば、「家が貧乏な同級生がクラスでいじめにあっていたらどうするか?」という問題です。見て見ぬふりをするのか、それとも助けるのかという。

上級生から「非国民の卵」として目をつけられた友人が鉄拳制裁を受け、それを助けられなかったことで、コペル君が自己嫌悪に陥って寝込んでしまう場面があります。その時に、おじさんは次のように語りかけます。

「人間の本当の値打は、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪勢な邸(やしき)に住んで見たところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打がそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。」

「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、 ―― コペル君、いいか、 ―― それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。子供のうちはそれでいい。しかし、もう君の年になると、それだけじゃあダメなんだ。」

「肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持を起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。」

こうしたおじさんとの対話を通じて、コペル君はたくさんのことを学んでいくのです。

本書の最後で、著者の吉野は読者に対して次のように語りかけます。

「コペル君は、こういう考えで生きてゆくようになりました。そして長い長いお話も、ひとまずこれで終わりです。そこで、最後に、みなさんにおたずねしたいと思います。――君たちは、どう生きるか。」

まさにこれから太平洋戦争が始まろうとしている軍国主義下の日本で、一人ひとりに主体的な生き方を問いかけるこのような小説が出版されたこと、そしてそれが今日にまで読み継がれるベストセラーであり続けていることに、驚きと感動を覚えます。

より本質的な「生きることの意味」を探し求めている

あれから80年以上が経った今、私たちが置かれている社会の現状を目の当たりにして、若者たちがこの本に強い共感を覚える気持ちはとてもよく理解できます。

皆、もはや受験やビジネスなどの小手先のテクニックやノウハウなどではなく、より本質的な「生きることの意味」を探し求めているのではないでしょうか。

ただ周りの人たちに忖度し世間に迎合するのではなく、世の不条理に正面から向き合い、それを自分なりに考え、自分なりの解を導ける大人になろう――こうした当たり前のことが現代の若者たちの心にここまで強く響くのは、逆に、そうでない大人がいかに多いかということの証左ではないかと思います。

本書全体を通して見ると、そこで問われているのは、人としての「覚悟」ではないでしょうか。自分の人生に対して真摯に向き合おうという。

でも、その「覚悟」は一体どこから出てくるのでしょうか。誰かから「覚悟を持ちなさい」と言われたら出てくるものなのでしょうか。

ラテン語で「メメント・モリ」という警句があります。直訳すれば、「死後の世界を想像せよ」ですが、もともとは「どうせいつかは死ぬ身なのだから、できるだけ今を楽しもう」という意味でした。

これが、キリスト教の影響を受けて変化し、今では「自分が必ず死ぬことを思うと、今この瞬間の大切さがわかってくる」という意味に解されています。自分がいつか必ず死ぬことを考えれば、腹をくくれるということです。

第2回で紹介した映画『生きる LIVING』の見出しには、「最期を知り、人生が輝き出す」とありますが、まさにその通りだと思います。

死を意識することは、そのコントラストとして生を意識することでもあります。死を思う(メメント・モリ)ことで、初めて生が輝き始めるのです。もし死がなければ、生の完全燃焼というのもありえません。

スティーブ・ジョブズの「歴史的スピーチ」

アップルの創業者スティーブ・ジョブズの歴史的名スピーチをご存知でしょうか。

2005年に、スタンフォード大学の卒業式で行ったもので、彼はその中で、死について次のように語っています。

「自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときにもっとも役立ちます。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安……これらはほとんどすべて、死の前では何の意味もなさないからです。そこでは、本当に大切なことしか残りません。(中略)死は私たち全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいません。それは、あるべき姿なのです。おそらく死は、生命にとっての最高の発明です。それは生物を進化させる担い手です。古いものを取り去り、新しいものを生み出します。(中略)あなた方の時間は限られています。だから、他人の人生を生きることで時間を無駄にしないでください。」

あえて誤解を恐れずに言えば、「死」こそが人間の徳のひとつである「勇気」の源になっているのだと思います。

死のない世界をディストピア(反理想郷)として描いた小説や映画はたくさんあります。

例えば、手塚治虫の漫画『火の鳥 未来編』には、不死鳥である火の鳥の血を飲むことによって、不死の体を得てしまった登場人物の果てしない苦しみが描かれています。

そして、これは私自身が死と向き合った経験からも言えることでもあり、それが今、私が生きるうえでの原点になっていると思うからなのです。

本書との関連で、もう一冊紹介しておきたいと思います。多摩大学学長の寺島実郎の、『何のために働くのか 自分を創る生き方』です。

寺島はこの本の中で、内村鑑三の『後世への最大遺物』と市井三郎の『歴史の進歩とはなにか』を引用しながら、次のように、「君たちはどう生きるか?」を問いかけています。

「『後世への最大遺物』は、一八九四年、箱根・芦ノ湖畔で開かれたキリスト教徒・夏期学校における内村の講話をまとめたもので、文庫本でわずか七十一ページの短い講演録である。語られているテーマは、「我々人間は、人生を通じて、この世に何を遺せるのか」という根源的な問いかけである。心に沁みるのは、最後の四行である。

われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。

金持ちになることでも、実業家として成功することでも、偉大な思想を遺すことでもない。人がこの世に遺せる最高のものは、「あの人は、あの人なりの人生を、立派にまっとうに生きた」ということである。この短い結論が、青年たちの胸を打った。(中略)仕事を通して時代に働きかけ、少しでも歴史の進歩に加わることが「生きること、働くこと」の究極の意味だと、私は考えている。(中略)時代に流されるまま、「人間の歴史に進歩なんかない」と、あきらめにも近い気持ちが社会を覆っているが、果たしてそれでいいのだろうか。

哲学者、市井三郎は『歴史の進歩とはなにか』のなかで、「歴史の進歩とは、自らの責任を問われる必要のないことで負わされる”不条理な苦痛”を減らすことだ」という主旨のことを述べている。生まれながらの貧困、ある国に生まれたという理由だけで差別されること……そんな圧倒的な不条理を、制度的・システム的に克服し、苦しみから解放することが歴史の進歩だというのだ。この示唆は極めて重要である。なぜならそこに「人間は何のために生き、何のために働くのか」という本書の問いかけに対する、ひとつの答えがあるからだ。」

「人間は何のために生き、働くのか」

さらにもう一冊、『数学する身体』で有名な独立研究者の森田真生の『僕たちはどう生きるか 言葉と思考のエコロジカルな転回』を紹介したいと思います。

この本のタイトルは、『君たちはどう生きるか』に呼応するものだと思います。

森田は、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として立ち上げた京都の鹿谷庵を拠点に、コロナ禍で生き方に根本的な変化が生じた「エコロジカルな転回」以後の、言葉と生命の可能性を追究しています。

その中で森田は、環境危機が招く人間の内面の崩壊について、小説家のリチャード・パワーズが『惑う星』で書いている「明らかに自己破壊に夢中なこの世界について説明を求められたとき、父は息子に何を語ることができるだろうか」という言葉を引用して、次のように語っています。

「僕はこの問いを、自分自身の問いだと感じる。できることならこんな問いかけを、子どもたちがしなくてもいいような世界にしたい。だが、もし彼らがいつか、ただひたすら「自己破壊に夢中」なこの世界を前に、どう生きたらいいかを見失うときが来たら、僕は彼らに、言葉を贈りたい。心を閉ざして感じることをやめるのではなく、感じ続けていてもなお心が壊れないような、そういう思考の可能性を探り続けたい。僕たちはどう生きるか。僕たちはどう生きていたのか。本書は、僕から未来に宛てる第一信である。」

この本を読んで、第2回で紹介した、加藤典洋の『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。幕末・戦後・現在』に出てくる、宮崎駿の「あるとき、たまたま10歳くらいの子どもたちを見ていた。そしたら、自分は彼らに対し、いま何が語れるだろうか、という考えが浮かんだ」という言葉を思い出しました。

私たちは後に続く世代に何が残せるのか、どのような言葉を語り継ぐことができるのか――それを考えることが、私たち大人に課された責務なのではないかということです。

そして、その答えは、「美しい国」だとか「品格のある国」だとかいう言葉にではなく、より人間の本質に近いところに求めなければならないのだろうと思います。

生きた証しをどう後世に残すか

ここでもう一度考えてもらいたいと思います。

あなたが考える「善い人生」や「善い社会」とは、どのようなものでしょうか? どうしたらあなたが生きた証しを、善い形で後世に残していけるのでしょうか?

多くの名言を残した女優のマリリン・モンローは、自らの生き方を貫く姿勢について聞かれ、「私が私でなくなってしまうのであれば、何になっても意味がない」と答えています。

先程紹介したスティーブ・ジョブズの「他人の人生を生きることで時間を無駄にしないでください」と同じく、この言葉が示唆するのは、自分という存在の当事者性です。

こうした当事者性こそが、唯一無二の自分という存在の確認と他人という存在の是認、さらにはそこから導き出される多様性の尊重につながるのだということです。

「覚悟を持って生きろ」というと大上段に構えすぎかもしれませんが、今、自分が生きていることの意味を反芻しながら、一歩一歩しっかりと「自分の人生」を歩んでいく、その「覚悟」を持てた時、あなたは初めて「あなたの人生」のスタートラインに立つのです。

著者

堀内 勉

一般社団法人100年企業戦略研究所 所長

多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長。 東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、Institute for Strategic Leadership(ISL)修了、東京大学 Executive Management Program(EMP)修了。日本興業銀行、ゴールドマンサックス証券、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員CFO、アクアイグニス取締役会長などを歴任。 現在、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事・アート委員会共同委員長、川村文化芸術振興財団理事、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、社会変革推進財団評議員、READYFOR財団評議員、立命館大学稲盛経営哲学研究センター「人の資本主義」研究プロジェクト・ステアリングコミッティー委員、上智大学「知のエグゼクティブサロン」プログラムコーディネーター、日本CFO協会主任研究委員 他。 主たる研究テーマはソーシャルファイナンス、企業のサステナビリティ、資本主義。趣味は料理、ワイン、アート鑑賞、工芸品収集と読書。読書のジャンルは経済から哲学・思想、歴史、科学、芸術、料理まで多岐にわたり、プロの書評家でもある。著書に、『コーポレートファイナンス実践講座』(中央経済社)、『ファイナンスの哲学』(ダイヤモンド社)、『資本主義はどこに向かうのか』(日本評論社)、『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP)
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※本記事は「東洋経済オンライン」に2023年8月15日に掲載された記事の転載です。元記事はこちら

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