現代人が「働く意味」を見失った歴史的な深い理由
今こそ宗教改革以来の「労働観」を変えるべき

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目次

※本記事は「東洋経済オンライン」に2023年9月19日に掲載された記事の転載です。

現在、学校教育のみならずビジネス社会においても「教養」がブームになっている。その背景には何があるのか。そもそも「教養」とは何か。なぜ「教養」が必要なのか。

ベストセラー『読書大全』の著者であり、「教養」に関する著述や講演も多い堀内勉氏が、教養と生きることの意味について論じる、好評シリーズの第7回。

皆さんは、自分が何のために働くのかについて考えてみたことはあるでしょうか。

自分は「何のために生まれてきたのか?」「何のために生きているのか?」という問いであれば、即答するのは難しいと思います。

ここには多くの哲学的な問いが含まれていますし、そもそも私たちは自分の意思で生まれてきたわけではありません。

「労働の意味」の歴史的変化

では、「なぜ働くのか?」と問われたら、どうでしょうか。

誰かに強制されたわけではなく、大人になって自分の意思で働き始めたにもかかわらず、何のために働いているのか答えられないということはあるのでしょうか。それとも、単に「お金のため」というのがその答えでしょうか。

「労働」の意味は、未開社会、古代、中世、近代と徐々に変化してきました。そこに宗教的な意味や共同体の規範的な意味が含まれていた時代と、現代の資本主義社会における労働の持つ意味はかなり異なっています。

今回は、これまで語ってきた「教養」という切り口で、私たちの働き方について考えてみたいと思います。

キリスト教では当初、「労働というのは神から与えられた罰である」とされていました。神の教えに逆らったアダムとイブは、楽園(エデンの園)から追放されることになります。

そのとき神は、アダムに対して次のように言います。

「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」(旧約聖書「創世記」第3章17-19節)

それが、聖アウレリウス・アウグスティヌス(354-430年)やヌルシアのベネディクトゥス(480-547年)の時代になると、労働は修道院制度の中に組み込まれていきます。中世の時代、労働は祈りや冥想と共に重要な行いの1つになったのです。

修道院は、主にカトリック教会の修道士がイエス・キリストの精神に倣い、祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設です。

ベネディクトゥスが、「すべて労働は祈りにつながる」と言ったように、修道院では自給自足の生活を行い、農業から印刷、医療、大工仕事まで全てを手分けして行っていました。

宗教改革が変えた労働観

これが16世紀になると、マルティン・ルター(1483-1546年)の宗教改革によって教会や司祭の権威は否定され、個々の信徒は神と直接向き合うようになります。信徒たちは魂の救済の確証を仕事に求め、与えられた仕事に励むことを宗教的使命と受け止めるようになります。

こうしてプロテスタントは、労働そのものに価値を認め、「(神の)呼ぶ声」という意味の「vocation」(召命)や「calling」(天職)といった概念に辿り着きます。

こうしたプロテスタントの精神に資本主義成立の根拠を求めたのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のマックス・ウェーバーです。

ウェーバーは、西欧近代文明を他の文明から区別する原理は「合理性」であるとして、それを「現世の呪術からの解放」と捉えました。そして、プロテスタンティズムの世俗内禁欲の思想が資本主義の精神に合致していたとして、西欧特有の現象としての資本主義の成立を論じました。

ウェーバーが強調しているのが、宗教改革の指導者ジャン・カルヴァン(1509-1564年)が提唱した、「最後の審判に際して、神の救済に与る者と滅びに至る者はあらかじめ決められている」とする「二重予定説」です。

自分がどちらに決まっているのかをあらかじめ知ることはできないため、神から課せられた職業人の使命としての世俗内労働の中に救いの確証を求め、欲望を厳しく自制し、生活を徹底して合理化して蓄財に励んだことで、それが再投資に回され、資本の無限の増殖運動としての資本主義につながったというのです。

このように、働くことを通じて自分は救われるべきものであるという神の恩寵を確信できるというプロテスタンティズムの倫理観が、労働の苦しみはそれ自体が善であり気高いものである、従って労働そのものに意味があるという現代の労働観につながるのです。

西洋の労働観は、プロテスタンティズムの倫理(カルヴァニズムの予定説)→「神の救済に与る者と滅びに至る者はあらかじめ決められている」→禁欲的労働(世俗内禁欲)によって自分は神に救われる人間であるという確信を持つことができる→禁欲的に働き富を得ることができれば、それ自体が神の意志に適っている証拠であり、神の救済の確信につながる、というロジックです。

つまり、「善行を働けば(因)、救われる(果)」という通常の因果論とは逆の、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果を逆転させたコペルニクス的転回と言うべき思考方法なのです。

「清貧の思想」を重んじた日本

これに対して、日本で長らく信じられてきた労働観は「清貧の思想」です。

バブル崩壊直後の1992年に評論家の中野孝次の『清貧の思想』がベストセラーになり、これが時代の言葉となりました。資本主義の精神とは逆に、所有に対する欲望を最小限に抑えれば、逆に心の豊かさが飛躍的に拡大するという発想です。

ここではバブル崩壊の反省から、光悦、西行、兼好、良寛らの生き方の中に、モノを放下し、風雅に心を遊ばせ、内面の価値を尊ぶ清貧の文化伝統を見出し、「貧しくても心は豊かである」という理解から、「貧しいことがその人の心の豊かさ、清らかさを証明している」という逆転の思考方法になっています。

このように、西洋の労働観が、「お金を稼ぐことが神の恩寵の証になる」というカルヴァニズムから来ているのに対して、バブル崩壊後の日本の労働観は、「貧乏であることが心の清らかさの証になる」という「清貧の思想」に基づいているとすれば、どちらが資本主義との相性が良いかは明らかです。

こうした西洋的な労働観から生まれた資本主義がもたらす人間疎外に立ち向かったのがマルクスです。『資本論』によって確立された経済学をマルクス経済学と言いますが、これは人間の労働が価値を生み、労働が商品の価値を決めるという労働価値説をベースにしています。

資本主義以前の職人たちは、自らの知識と経験をもとに労働の内容を決めて、自分たちで実行していました。これが、資本主義社会に移行する中で、人々は生産手段や生産能力を失い、他人の命令や監督に従うだけの存在になっていきます。 このように労働者が資本にからめとられてしまうことを、マルクスは「包摂」(subsumption)と呼びました。

この資本による支配は、私たちの内面にまで及んでいきます。貨幣や商品に振り回される生活を当然のこととして、それどころかむしろ望ましいこととして内面化していくようになります。これが「魂の包摂」です。

つまり、資本主義の価値観を意識のレベルにまで受け入れてしまい、その枠内で自分の利益や効用を積極的に最大化するようになっていくのです。

フランスの哲学者ベルナール・スティグレールは、『象徴の貧困』の中で、資本主義の高度化が行き着くところまで行くと、やがて資本主義の価値観を完全に内面化してしまい、自己を失った人間が出てくると言っています。

経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946年)は、『ケインズ説得論集』に収められている論考「孫たちの経済的可能性」の中で、イギリスやアメリカのような先進諸国では、テクノロジーの進化によって生活水準が向上し、向こう100年の間には、1日3時間労働が実現しているだろうと予言しました。

人類にとっての経済問題は解決し、人々は働かなくてもよくなり、労働観も変わることから、余暇を有効に使える人生をわきまえた人が尊敬されるようになると考えたのです。

しかし、こうしたケインズの予言は当たりませんでした。今日、経済的問題は一向になくなっていませんし、1日3時間働けば生活ができるという社会は、この先もとても実現しそうにありません。

テクノロジーが無意味な仕事をつくりだす

この理由について、社会人類学者のデヴィッド・グレーバーは、『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』の中で、テクノロジーがむしろ無意味な仕事をつくりだすことに使われたからだと説明しています。

グレーバーは、”We are the 99%”(我々は99パーセントだ)というスローガンの下で行われた、2011年のニューヨークでの抗議活動”Occupy Wall Street”(ウォール街を占拠せよ)の理論的指導者です。

同時期の著書『負債論 貨幣と暴力の5000年』の中で、貨幣の歴史は血と暴力によって彩られた負債の歴史であり、「借りたお金は返さなければならない」という道徳観は間違っており、すべてを帳消しにして出直すべきだとして、世界に大きな衝撃を与えました。

「ブルシット」(bullshit)を直訳すれば「牛の糞」、つまり、「何の役にも立たないもの」ということです。グレーバーは、「ブルシット・ジョブ」(bullshit job)を次のように定義しています。

「ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。」

20世紀に入って、金融サービスやテレマーケティングなどの新しい情報関連産業、企業法務、人事、広報といった管理系のホワイトカラーの仕事が急拡大しています。

グレーバーは、世の中の仕事の過半数は無意味であるとしたうえで、特に、プライベート・エクイティ・ファンドのCEO、ロビイスト、PRリサーチャー、テレマーケティング担当者、企業弁護士などは、消えてしまっても困らないし、むしろ社会は良くなるかもしれない類の仕事であるとしています。

こうした仕事は、まるで誰かが意図的に、私たちを働き続けさせるためだけに作り出したかのようであり、何より問題なのは、やっている本人自身が何の役に立つのかわかっていないというのです。

実際、イギリスの調査会社ユーガブがグレーバーの言葉を直接引用して調査を行ったところ、労働者の37%が「社会に対して意味のある貢献をしている」とは思っていないことが判明しました。「自分の仕事が有用だ」と思っているのは50%に過ぎず、残りの13%が「わからない」と回答しているのです。

現代の労働価値観=規律を守って長く働く

多くのホワイトカラーは、書類上では週40-50時間働いていることになっていながら、実際に働いているのはわずか15時間程度で、残りは無駄に時間を過ごしていると言います。しかも、いなくなっても大して困らないであろう金融サービスや企業弁護士などの年収は、10万ドルを超えています。

その一方で、製品を作り、運搬し、修理し、維持管理する人々が、コストカットの名目でリストラされてきました。

医師のような僅かな例外を除けば、看護師やバスの運転手のように直接的に社会に貢献していて、いなくなったら困る人たちほど賃金が低く、社会的には恵まれない立場に置かれているのです。

特に、2019年末に始まったコロナ禍において、人々の暮らしに不可欠な社会基盤を支える職業に就くエッセンシャルワーカーという、現場の最前線で働く人々が命の危険にさらされたことが問題になりました。この中には、医療、交通、食品、配送、清掃員などに従事する、特に有色人種や女性などの社会的弱者が多く含まれています。

ブルシット・ジョブは、利益至上主義の大企業においては存在し得ないはずです。グレーバーは、それにもかかわらずなくならないことの背景について、その仕事がどれだけ無意味であったとしても、規律を守って長時間働くこと自体が自らを価値づけるのだという現代の労働倫理観があると考えています。

こうした、労働にはそもそも宗教的な意味があるというプロテスタント的なメンタルな縛りを、現代人の「潜在意識の奥底に組み込まれた暴力」であると言っています。

こうした労働観が、数百年の長きにわたって私たちの中にしみ込んでしまっている以上、これをただちに打ち破るのはかなり難しい作業ですが、今、日本でも盛んに議論されている働き方改革を考えるうえで、自分たちの仕事は、本当はブルシット・ジョブなのではないかと問い質してみることが必要なのではないでしょうか。 

今では逆にAI(人工知能)が人間の仕事を奪うのではないかという後ろ向きな議論も多く、なぜAIに仕事を奪われることがいけないのか、経済が成長しているのに私たちの生き方は貧しいままという現状を見つめ直してみるときなのではないでしょうか。

「退屈」こそが人類にとっての最大課題に

実は、ケインズ自身も、労働からの解放という点に関しては、別の意味で悲観的な見方をしていました。彼は、経済問題が解決された成熟社会においては、余暇における「退屈」こそが人類にとって真の課題になると考えていたのです。

生存のための闘争としての経済というのは、人類の誕生以来、最も重要な課題であり、その解決のために本能を進化させてきた人類が労働から解放されてしまったら、多くの人たちは何もすることがない状態に堪え切れず、神経衰弱になってしまうと考えたからです。

最後にもう一度、前回紹介した寺島実郎の『何のために働くのか 自分を創る生き方』を紹介したいと思います。寺島は次のように言っています。

「自分の責任において担うべきことは、胸を張って担い、その上で、本人の責任を問われるべきでないことで苦しむ人達に温かい眼を向け、不条理な世の中の仕組みや制度を変える気迫を若者には求めたい。」「大量のエントリーシートを記入することだけが就職活動ではない。就職や転職という人生の岐路で、『自分はなぜ働くのか』『人生の目的とは何か』を立ち止まってじっくりと考えてほしい。」

皆さんも、自分が何のために働くのかについて、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

著者

堀内 勉

一般社団法人100年企業戦略研究所 所長

多摩大学大学院経営情報学研究科教授、多摩大学社会的投資研究所所長。 東京大学法学部卒業、ハーバード大学法律大学院修士課程修了、Institute for Strategic Leadership(ISL)修了、東京大学 Executive Management Program(EMP)修了。日本興業銀行、ゴールドマンサックス証券、森ビル・インベストメントマネジメント社長、森ビル取締役専務執行役員CFO、アクアイグニス取締役会長などを歴任。 現在、アジアソサエティ・ジャパンセンター理事・アート委員会共同委員長、川村文化芸術振興財団理事、田村学園理事・評議員、麻布学園評議員、社会変革推進財団評議員、READYFOR財団評議員、立命館大学稲盛経営哲学研究センター「人の資本主義」研究プロジェクト・ステアリングコミッティー委員、上智大学「知のエグゼクティブサロン」プログラムコーディネーター、日本CFO協会主任研究委員 他。 主たる研究テーマはソーシャルファイナンス、企業のサステナビリティ、資本主義。趣味は料理、ワイン、アート鑑賞、工芸品収集と読書。読書のジャンルは経済から哲学・思想、歴史、科学、芸術、料理まで多岐にわたり、プロの書評家でもある。著書に、『コーポレートファイナンス実践講座』(中央経済社)、『ファイナンスの哲学』(ダイヤモンド社)、『資本主義はどこに向かうのか』(日本評論社)、『読書大全 世界のビジネスリーダーが読んでいる経済・哲学・歴史・科学200冊』(日経BP)
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※本記事は「東洋経済オンライン」に2023年9月19日に掲載された記事の転載です。元記事はこちら

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